Jリーグ創世記を代表する司令塔の一人であるビスマルク。
ヴェルディ川崎、鹿島アントラーズ、ヴィッセル神戸でプレーし、高度なテクニックと広い視野で組み立ての中心となり、数々のタイトルの獲得に貢献。ビスマルクは「優勝請負人」と呼ばれた。
共に創世記のヴェルディの中盤を彩ったラモス瑠偉との連係プレーは見るものを魅了した。Jリーグ開幕年に魅せた、ラモスとのリフティングで相手を抜き去ってゴールに繋げたプレーはあまりにも有名だ。
敬虔なクリスチャンであり、ゴールを決めた後には、神に感謝すべく、お祈りパフォーマンスをすることで有名となったが、ビスマルクのこのゴールセレブレーションは、全国に広く知れ渡り、多くのサッカー少年がこぞって真似をすることとなった。
ビスマルクのJリーグ入り前
ビスマルクは1969年にブラジルのリオデジャネイロ州サンゴンサロに生まれた。
名門ヴァスコ・ダ・ガマの育成部門で優秀な成績を残し、1987シーズンにはトップデビューを果たした。
1987年にワールドユースブラジル代表に選出される。鹿島アントラーズでプレーしたアルシンド、アンドレ・クルスらと共にプレーしたが、決勝トーナメント1回戦でユーゴスラビアに1-2で敗れている。
1989年にも、ワールドユースの代表として活躍し、レオナルドらとともにプレー。この大会でビスマルクは司令塔として活躍し3得点を決め、ゴールデンボール賞を獲得。ブラジルの3位入賞に貢献した。
ヴァスコ・ダ・ガマでは1988シーズンから、レギュラーとしてプレー。このシーズン、ビスマルクは、ロマーリオに多くのアシストを記録し、司令塔の座を不動のものとした。
1990年のアメリカワールドカップでは、国内リーグでの活躍が評価されメンバー入りを果たした。しかし、出場機会はなく、ブラジルも決勝トーナメント1回戦で敗れている。
その後もヴァスコ・ダ・ガマでプレーを続けたビスマルクの元には、サンパウロを始め、ヨーロッパのチームなど多くのオファーが届く。
Jリーグのヴェルディ川崎もオファーを出すも、Jリーグはまだ開幕したばかりであり移籍は実現しないであろうと思われたが、ビスマルクは意外にも日本行きを決断することになる。
ビスマルクのJリーグ入り後
ビスマルクは、ヴェルディ川崎と契約を交わし、1993年7月31日の2ndステージ第2節ガンバ大阪戦でJリーグデビューを飾る。
当時のヴェルディは、中盤は司令塔にラモス瑠偉、右サイドに北澤豪、左サイドをビスマルクが務め、FWに三浦知良と武田修宏という超攻撃的布陣で無類の強さを誇った。
第4節ジェフユナイテッド市原戦では試合終了間際にJリーグ初ゴールを挙げ、チームを勝利に導く。ビスマルクの加入で、活気づいたヴェルディはその勢いのままステージ優勝を果たし、チャンピオンシップでも年間優勝を飾った。この年のナビスコカップで、ビスマルクは大会MVPを受賞している。
1994年も、3月12日の第1節ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、以降も抜群の存在感で先発フル出場を続け、2ndステージ優勝と年間優勝に大きく貢献し、自身もベストイレブンに選出された。
1995年は、怪我で欠場したラモスの代わりに司令塔を務める機会も増え、2年連続でベストイレブンを受賞。しかし1996年は、ヴェルディ川崎の成績が振るわず、チームは新しい外国人選手を獲得するためにビスマルクを放出する。
1997年に鹿島アントラーズへ移籍。移籍の決め手となったのは、神様ジーコからの誘いであったと後年語っている。
鹿島では背番号10を背負い、中盤で広くプレーし、万能型の選手として活躍。絶妙なスルーパスだけでなく、フリーキックで貴重なゴールもマークした。
鹿島アントラーズには5シーズン在籍し、3度の年間チャンピオン、その他にも多くのタイトルをもたらし、黄金時代の立役者となった。
2001年に鹿島を退団後は、ブラジルに帰国しフルミネンセやゴイアスでプレーするも、2003年にヴィッセル神戸からオファーを受け再び来日。
神戸でも背番号10を背負い、ヴェルディ時代のチームメイトである三浦知良や三浦泰年、菅原智とプレーをするも以前のような活躍を見せることはなくこのシーズン限りで神戸を退団し、現役を引退した。
ビスマルクの引退後と現在
ビスマルクは現役引退後、代理人に転身した。
現役時代のスマートな体系からはややふくよかになったが、アレックス・ミネイロなど多くのブラジル人選手の日本行を手掛けている。
若かりし頃のビスマルクは、ブラジからスペインへの移籍を考えており、そこが難しければサンパウロへの移籍を考えていたという。日本への移籍は3番目の選択肢だったが、クリスチャンであるビスマルクは、神に祈り主の志は何か教えを乞い、日本行を決断したと語っている。
ビスマルクがゴールを決めると、多くの子供たちが彼のようにピッチに膝眞づいて祈りを捧げるゴールセレブレーションを真似をしたが、ビスマルクはそれがとても嬉しかったと語っている。
もし若かりし頃のビスマルクが、Jリーグではなくスペインリーグへの移籍を決断していれば違った未来があったのかもしれない。ビスマルク自身もブラジル代表に返り咲き、輝かしい栄冠を獲得していたのかもしれない。
しかし、彼は日本行きを選択した。まだサッカー未開の地である日本でプレーを選択することを選んだのだ。才能ある若手選手が、アジアの島国でプレーすることを選択するというのは、一種の賭けであり、挑戦でもあったのだと思う。