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秋田豊の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第40回】

ヘディングがめっぽう強く、強靭な身体を武器にハードマークで相手を押さえ込むDF、秋田豊。

レギュラーとして出場したフランスワールドカップではアルゼンチンのエースであるバティストゥータやクロアチアのスーケルとも互角に渡り合い、日本の可能性を感じさせた。

秋田はJリーグにおいても、横浜マリノスのラモンディアスや、ジュビロ磐田のスキラッチ、ガンバ大阪のエムボマなどワールドクラスの外国人を相手に対等に戦うことの出来る数少ない日本人センターバックだった。

セットプレーの強さも魅力で、秋田の攻撃参加から数々のゴールも生まれた。

鹿島黄金時代の不動のセンターバック、秋田豊に迫る。

秋田豊のプロ入り前


秋田は1970年に愛知県名古屋市に生まれた。

小学校2年生の頃からサッカーを始めた。当初は野球とサッカーの両方に取り組んでいた秋田だったが、愛知中学校に進学した際にサッカー部に入部。
本格的にサッカーに取り組み始める。

中学時代には全国大会にも出場。

高校はサッカーの名門である愛知高校に進学。

高校3年次には全国高等学校サッカー選手権大会に出場。

2回戦で神奈川の湘南高校に敗れるも、存在感を示した。

この年の選手権は名波浩や藤田俊哉などを擁する清水商業が優勝している。

高校卒業後、特待生として愛知学院大学に進学。

愛知学院大学ではパワーリフティングをやっていた友人と共に体づくりに取り組み、食生活を見直し、ハードなトレーニングを連日繰り返した。

秋田の強靭な肉体と精神力はこの時代に養われた。

愛知学院大の監督と住友金属(現鹿島アントラーズ)の強化部が知り合いだった縁で秋田は毎年のように住友金属の本拠地である鹿島へ合宿に行くことになる。

そして強化部から声をかけられ、秋田は1993年に大学を卒業して鹿島アントラーズに加入することになる。

秋田豊のプロ入り後

秋田は加入初年度から右サイドバックのレギュラーとして活躍。

1年目はリーグ戦35試合に出場した。

2年目も38試合に出場しDFながら4得点を挙げるなど、鹿島の堅守を支えながら貴重な得点源として活躍。

3年目にはリーグ戦50試合に出場し日本代表にも初選出。

代表では横浜マリノスの井原正巳とタッグを組み、センターバックを務めた。

2002年の日韓ワールドカップにはジュビロ磐田の中山雅史とともにベテランとしてトルシエ監督に召集を受ける。

出場機会はなかったが、控えメンバーながら持ち前の明るさでチームを盛り上げ日本のベスト16進出に貢献した。

監督がトルシエからジーコに代わっても変わらず招集を受けるが2003年を最後に代表から遠ざかった。

日本代表では44試合に出場し4得点の記録を残した。

鹿島アントラーズには2003年まで在籍し、移籍するまで主軸のセンターバックとして活躍しリーグ優勝など9つのタイトル獲得に貢献した。

鹿島アントラーズではリーグ戦334試合に出場し20得点を記録した。

2004年からは出身地の名古屋に拠点を置く名古屋グランパスと契約。

背番号2を背負い、2007年までプレー。2008年は自身初となるJ2の京都サンガで1シーズンプレーし、15年のプロ生活に終止符を打った。

秋田豊の引退後と現在

秋田は引退後、2008年から京都サンガのトップチームのコーチに就任。2年間コーチとして現場で指導。

2012年からは東京ヴェルディのコーチに就任し、2013年には町田ゼルビアの監督して指揮をとった。

現在はテレビ解説をしながら、トレーニング用のゴムバンドやゴムチューブの正規代理店『株式会社サンクト・ジャパン』の代表取締役を務めている。

秋田は今まで多くのワールドクラスの選手と対峙してきたが、選手の中でフィジカルの強さを強烈に感じたのはただ1人だけ、中田英寿だけだという。

日本が世界を舞台に戦うには絶対的にフィジカルコンタクトの部分は足りていない。

秋田は経験と自信を元にフィジカルトレーニングの大切さを伝え続けている。

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