藤本淳吾の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第514回】
左足から繰り出される正確なキックと、柔らかなボールタッチ。
清水エスパルスでプロ入りすると、1年目から新人王を獲得し、2010年にはJリーグベストイレブンにも選ばれた。
名古屋グランパスではリーグ優勝を経験。
横浜F・マリノス、ガンバ大阪、京都サンガ、SC相模原でもプレーし、17年間にわたってJリーグで活躍した。
日本代表にも選出され、国際Aマッチ13試合に出場。
FKやCKなどのプレースキックだけでなく、左足からのスルーパスやシュートでも多くのゴールを生み出した。
華やかなテクニックを持ちながら、決してエリート街道だけを歩んだわけではない。
筑波大学からプロ入りし、そこから日本を代表するレフティーへと成長した。
藤本淳吾のJリーグ入り前
藤本淳吾は1984年3月24日、神奈川県に生まれた。
幼少期からサッカーを始めると、横浜マリノスのプライマリーに所属。
その後、横浜栄FCを経て桐光学園高校へ進学した。
桐光学園高校では1年生から試合に出場。
3年生となった2001年には高校総体神奈川県大会で優勝し、全国大会にも出場した。
高校卒業後は筑波大学へ進学。
ここで藤本の才能が大きく開花する。
大学1年生の2002年には全日本大学サッカー選手権で優勝。
翌2003年にも同大会を制覇し、大学屈指の攻撃的MFへと成長していった。
2004年には関東大学リーグで優勝。
アシスト王とベストイレブンにも選ばれた。
2005年も関東大学リーグでアシスト王、ベストイレブンを獲得。
さらにユニバーシアードでは日本代表として優勝し、MVPと得点王という2つの個人タイトルまで手にした。
この活躍もあり、藤本は大学生ながらプロから大きな注目を集めるようになった。
2005年には清水エスパルスの特別指定選手としてJリーグの舞台も経験。
そして2006年、筑波大学から清水エスパルスへ加入する。
プロ1年目から背番号10を背負い、大きな期待を受けてのスタートとなった。
藤本淳吾のJリーグ入り後
2006年。
藤本は清水エスパルスでプロ生活をスタートさせる。

開幕直後からレギュラーとして起用され、J1リーグ28試合に出場。
8得点を記録した。
新人ながら攻撃の中心を担い、左足から繰り出すパスやシュートでチャンスを生み出していった。
その活躍が評価され、Jリーグアウォーズでは新人王を受賞。
優秀選手賞にも選ばれた。
プロ1年目から、いきなりJリーグを代表する若手選手の一人となった。
2007年にはリーグ戦34試合に出場して7得点。
さらに日本代表候補に初選出され、その後A代表にも選ばれた。
清水の攻撃を担う存在として成長していく。
2008年は18試合2得点。
2009年は27試合1得点。
数字だけを見ると得点は減少したが、ゲームを組み立てる役割やプレースキックなどでチームに貢献した。
そして2010年。
藤本にとってキャリアの大きな転機となるシーズンだった。
リーグ戦32試合に出場し、13得点を記録。
攻撃的MFとして高い得点力を発揮し、清水の上位進出を支えた。
そしてシーズン終了後、Jリーグベストイレブンに初めて選出された。
新人王から始まった藤本のキャリアは、5年目でJリーグを代表する選手の一人へと成長していた。
2011年、藤本は清水を離れ、名古屋グランパスへ移籍する。
名古屋には楢﨑正剛、田中マルクス闘莉王、中村直志、玉田圭司、ケネディら日本を代表する選手が揃っていた。
前年にJリーグを制していたチームへの加入だった。
藤本は1年目からリーグ戦33試合に出場。
9得点を記録した。
さらにJリーグベストイレブンにも選出。
2年連続でJリーグを代表する11人の一人となった。
2011年の名古屋は連覇こそ逃したものの、藤本は攻撃の中心として存在感を示した。
2012年も名古屋で33試合に出場。
2013年は28試合に出場した。
3年間でリーグ戦94試合に出場し、14得点。
名古屋でも主力としてプレーを続けた。
2014年には横浜F・マリノスへ移籍。
古巣ともいえる横浜のクラブでプレーすることになった。
リーグ戦26試合に出場し3得点。
2015年も19試合に出場した。
2016年にはガンバ大阪へ移籍。
強豪クラブを渡り歩きながら、経験を積み重ねていった。
この頃になると、若い頃のように常にゴールへ向かうだけではなく、チームの状況を見ながらゲームを作る役割も担うようになっていた。
2017年はリーグ戦14試合、2018年は21試合に出場。
2019年には京都サンガF.C.へ期限付き移籍し、J2でもプレーした。
その後ガンバ大阪へ戻ったものの、2019年シーズン終了後に退団することになった。
2020年からはSC相模原へ移籍。
J2で戦う相模原にとって、経験豊富な藤本の加入は大きな意味を持った。
J2でプレーした後、2021年にはJ3でプレー。
2021年10月24日のツエーゲン金沢戦ではゴールを記録した。
このゴールは37歳7か月での得点となり、当時のJ3における相模原の最年長得点記録となった。
年齢を重ねても、左足のキック精度は衰えていなかった。
そして2022年。
藤本はSC相模原で最後のシーズンを迎える。
リーグ戦でも出場機会を得ながらプレーを続けた。
しかし12月27日、2022年シーズンをもって現役を引退することを発表。
2006年に清水でプロになってから17年。
多くのクラブを渡り歩きながら、長い現役生活を終えることになった。
藤本淳吾のプレースタイル
藤本淳吾の最大の武器といえば、やはり左足だろう。
173cmと決して大柄ではない。
しかし、左足から放たれるキックには大きな特徴があった。
FK。
CK。
ロングパス。
スルーパス。
そしてミドルシュート。
さまざまな種類のキックを使い分けることができた。
特にプレースキックでは、ボールの軌道を変化させながらゴールを狙うことができた。
直接FKだけではない。
CKから味方の頭へ正確なボールを送り、チャンスを作る。
流れの中でも左足から鋭いパスを前線へ送り込む。
自らゴールを決めるだけでなく、味方を生かすこともできる選手だった。
また、藤本は左足だけの選手ではなかった。
細かなボールタッチで相手をかわし、狭いスペースでもボールを失わない。
中央でもサイドでもプレーでき、攻撃的MFとしてチームの攻撃を組み立てた。
清水時代にはトップ下やサイドでプレーし、名古屋でも攻撃の中心として起用された。
そして経験を重ねるにつれ、試合の流れを読む力も増していった。
2010年にリーグ戦13得点を記録したことからも分かるように、ゴール前へ入っていく能力も高かった。
パスを出すだけではなく、自らペナルティーエリア付近まで進出する。
そこから左足でシュートを放つ。
そのため相手DFにとっては、パスだけを警戒していればいい選手ではなかった。
そして何より、藤本には「左利きの華」があった。
ボールを蹴る瞬間のフォーム。
カーブを描いて落ちていくFK。
味方の足元へ吸い込まれるようなパス。
ゴール隅を狙う左足のシュート。
見ている人を楽しませることのできる選手だった。
藤本淳吾の引退後と現在
現役引退後、藤本はすぐに指導者としての道を歩み始めた。
2023年、横浜F・マリノスのサッカースクールコーチに就任。
幼少期に横浜のスクールに通っていた藤本にとって、今度は指導者として古巣に戻ることになった。
「自分が幼稚園の頃スクールに通ってからマリノスを好きになったように、今度は多くの子供たちにマリノスとサッカーが好きになってもらいたい」
そう語っている。
また、2023年にはJリーグ功労選手賞を受賞。
17年間の現役生活で、J1通算328試合54得点、J2通算40試合7得点、J3通算50試合6得点。
Jリーグ通算では418試合67得点を記録した。
さらにリーグカップや天皇杯、国際大会などを合わせると、Jリーグ公式記録上の通算は550試合87得点となる。
日本代表としても13試合に出場し、1得点。
大きな国際大会で長く主力を務めたわけではなかったが、日本を代表する左利きの攻撃的MFとして一時代を築いた。
振り返れば、藤本淳吾のキャリアは一つのクラブだけで完結したものではなかった。
清水。
名古屋。
横浜F・マリノス。
ガンバ大阪。
京都。
相模原。
そのすべてで、左足を武器にチームの攻撃を支えた。
大学時代にはアシスト王。
プロ1年目には新人王。
2010年、2011年にはJリーグベストイレブン。
そして名古屋ではJリーグ優勝を経験した。
派手なドリブルで何人もの相手を抜き去るタイプではない。
圧倒的なスピードで相手を置き去りにする選手でもない。
しかし、ボールを持った瞬間に何かを起こすことができた。
FKなのか。
パスなのか。
シュートなのか。
次に何をするのか分からない。
それが藤本淳吾だった。
そして、その左足は17年間にわたって多くのゴールとチャンスを生み出した。
「左足の魔術師」と呼びたくなるような美しいキック。
そのキックで多くのサッカーファンを魅了した藤本淳吾は、まさに記憶に残るレフティーだった。

