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尾﨑勇史の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第358回】

身長185センチ、85キロという恵まれた体格を生かした守備に定評のあるGK尾﨑勇史。

17年間の現役生活の中で、日の出を見る機会は少なかったが出場した試合ではインパクトのあるスーパーセーブを連発。

特にPK戦にはめっぽう強く、1999年シーズンの年間王者を決める清水エスパルスとのチャンピオンシップ第2戦では、PK戦でサントスのPKを見事に止めて優勝に大きく貢献した。

翌年のゼロックススーパーカップのPK戦では名古屋グランパスのストイコビッチ、平野考、呂比須ワグナーのシュートをことごとくセーブ。

神がかり的な活躍でジュビロ磐田の勝利の立役者となった。

尾﨑勇史のJリーグ入り前


尾崎は1969年に三重県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、高校は四日市中央工業へ進学。1学年上に阪倉裕二(ジェフ市原)がいる。

2年次に四日市中央工業は全国高校サッカー選手権に出場。尾崎に出場の機会はなかったが準優勝を果たしている。

3年次には正GKとして出場。2回戦で郡山北工を3-2で下し、3回戦では玉野光南を3-1で破りベスト8に進出。

準々決勝では小島光顕(サンフレッチェ広島)や其田秀太(横浜フリューゲルス)擁する国見とと対戦し0-3で敗れている。

高校卒業後、尾崎はジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機サッカー部へ入部する。、

尾﨑勇史のJリーグ入り後

ヤマハに入団後は、日本代表のGK森下申一がいたため、しばらく試合出場の機会はなかった。

入団後7年間で5試合の出場に留まるも、ヤマハがジュビロ磐田となり、Jリーグに参戦した1994年にチャンスが巡ってくる。

1994年シーズン途中に、森下申一、大神友明との激しいレギュラー争いの中で11試合に出場した。

だがその後、1995年シーズンからは大神友明が正GKとして出場するようになり、尾﨑はセカンドGKとしてベンチを温める日々が続いた。

1999年シーズン、ジュビロは1stステージで優勝し、2ndステージは12位と低迷したが、GKは尾﨑と大神が併用して起用された。

年間優勝を決めるエスパルスとのチャンピオンシップには2戦とも尾崎が先発。

2戦目のPK戦では2人目のキッカーであるサントスの左へのシュートを見事にセーブし、磐田の年間優勝に貢献した。

2000年のシーズン途中、ヴァンズワムの加入によって出場機会が減少した尾崎はアビスパ福岡へ移籍。2001年にはリーグ戦10試合に出場した。

2002年、サンフレッチェ広島へ移籍。

2年間で2試合の出場に留まったが、ベテランGKとして下田崇、林卓人のサポートに尽力しこの年限りで現役を引退した。

尾﨑勇史の引退後と現在

尾﨑は引退後、磐田東中学校に勤務する傍ら、同中のサッカー部を指導。

その後は磐田東高校で事務職員として勤務し、日本サッカー協会B級指導者の資格を取得し同校で指導を行っている。

尾﨑は17年間という長い現役生活の中で、シーズンを通して正GKとなる機会はなかったが、出場した試合では何かをやってくれるような非常に勝負強い選手であった印象が強い。

また現役晩年の磐田、福岡、広島ではGKのリーダー的存在としてチームを引っ張った。

あらためてGKの仕事というのは試合に出るだけではないということを感じさせてくれる存在だった。

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