日本代表監督のイビチャ・オシムに才能を見いだされ、「考えて走るサッカー」の申し子として ピッチで躍動した羽生直剛。
ジェフでは1.5列目からのスピードある飛び出しとフリーランニングを武器にシャドーストライカーとして活躍。FC東京に移籍してからは豊富な運動量とプレーエリアの広さを生かしボランチとしてもプレーした。
羽生は16年の現役生活でリーグ戦389試合に出場し34ゴールを記録。
相手チームのウィークポイントを見抜いてゴールに結びつけるテクニックは秀逸で、急所を見つけると、アタッキングエリアに神出鬼没に現れるそのプレースタイルは連動するオシムのサッカーに無くてはならない存在だった。
羽生直剛のJリーグ入り前
2歳の頃から父に公園に連れていってもらっては毎日ボールを蹴って遊んでいたという。
小学校1年生のとき、こてはし台SCに入団し本格的にサッカーを始めた。小学校5年時には千葉市の選抜チームである千葉北SCに選出。千葉北SCには後にジェフ千葉で一緒にプレーすることになる村井慎二や、山根伸泉がいた。
千葉市立こてはし台中学卒業後、千葉県立八千代高校へ進学。3年時の高校サッカー選手権千葉県予選決勝では市立船橋戦で2ゴールを挙げ、八千代を14年ぶりの全国大会に導いた。
全国大会ではベスト8に進出するも準々決勝で中田浩二を擁する帝京高校に敗退している。国体では千葉県選抜として3位入賞を果たす。
高校卒業後、筑波大学に進学。3年時のユニバーシアード北京大会初戦のチェコ戦では途中出場だったが、その試合で決勝点をマークしスタメンに定着すると、決勝戦での得点も含め3ゴールをあげ、チーム最多タイとなる活躍を見せた。
関東大学リーグは2年時から2連覇に貢献。3年時には得点・アシスト共に上位に入り関東大学MVPに選出された。
2002年、大学卒業後に羽生はジェフユナイテッド市原に入団する。
羽生直剛のJリーグ入り後
羽生は1年目からレギュラーポジションを獲得すると3月3日の開幕戦となった京都パープルサンガ戦でJリーグ初出場を果たす。同年11月9日2ndステージ第12節浦和レッズ戦でJ初ゴールを決める。この年はルーキーながらリーグ戦とカップ戦を合わせて32試合に出場し、2得点を記録した。
2003年、イビチャ・オシムが千葉の監督に就任するとオシムが提唱するムービングフットボールの中心人物として活躍。オシムが就任するとジェフは息を吹き返し2003年は年間総合3位、2004年は総合4位に入る躍進を見せた。
2004年、羽生は初めて日本代表候補に選出される。2006年にオシムが日本代表監督に就任すると、代表合宿に招集。8月16日のアジアカップ2007予選のイエメン戦で国際Aマッチ初出場を果たし、翌年の本選にも代表メンバーとして出場した。しかし、5試合に出場するも決定機を逃し韓国との3位決定戦ではPKで失敗し4位という結果で終わった。ジェフでは2006年にナビスコカップ制覇を達成。
2008年、J1のFC東京へ完全移籍。
東京ではゲームキャプテンを任された羽生は、飛び出しよりもサポートの意識を高め、3ボランチの一角を担った。オシムの後任である岡田武史率いる日本代表にも前年に引き続き招集され出場機会を得ていたが、下腿三頭筋挫傷により4月の日本代表トレーニングキャンプを辞退。これ以降日本代表には選出されなかった。
2009年、この年もゲームキャプテンとしてリーグ戦全試合に先発出場。チームトップの9アシストを記録する活躍を見せた。この年、自身2度目となるナビスコカップ制覇を達成。
2010年、FC東京はJ2降格となるが羽生はチームに残留。2011年はリーグ戦37試合に出場、ボランチだけではなく攻撃の中核を担い、東京を1年でのJ1復帰へと導いた。
2012年、足底筋膜炎による手術など負傷が重なりプロ入り後初の公式戦無得点に終わると、2013年にヴァンフォーレ甲府へレンタル移籍。
甲府では移籍直後から先発出場を続けていたが第16節湘南ベルマーレ戦で肉離れを起こし戦線離脱を余儀なくされる。
羽生不在中にシステム変更がありこれ以降出場機会が激減。シーズン終了後、チームから慰留を受けたものの期間延長をしないで退団する。
2014年FC東京へ復帰。
4-3-3のシステムのトップ下のポジションを米本拓司と争う。精緻な守備戦術にも順応しシーズン半ばよりインサイドハーフのポジションを獲得した。翌年も優れた戦術眼によりゲームコントロールの一躍を担いチームを助けた。
2017年、古巣であるジェフユナイテッド市原・千葉へ完全移籍。10年ぶりの古巣復帰とあり副将を任され期待されるも試合出場の機会は限られリーグ戦8試合の出場に留まる。
2018年、羽生は16年の現役を終え引退を表明した。
羽生直剛の引退後と現在
羽生は引退後、2018年1月からFC東京の強化部スカウト担当に就任している。
羽生は現役時代、チームの潤滑油として無くてはならない存在だった。ジェフ時代は自ら積極的に飛び出していくシャドーストライカーとしてスペースを突き、FC東京時代は中盤の底でもプレーし味方にとっていてほしいところに必ず存在した。
年齢を重ね、ポジションが流動的に変わっても豊富な運動量からくる献身的なプレースタイルは相変わらずだった。
羽生は今後の業務について、「プレースタイル同様、運動量で人と人をつなぐポジショニングをして、常に全力で楽しくやっていきたい」と語っている。かつてオシムチルドレンと呼ばれ、ムービングフットボールを体現した男の新たな挑戦に期待したい。