身体能力の高さを武器にサンフレッチェ広島や横浜Fマリノス、セレッソ大阪で活躍したGK河野和正。
サンフレッチェでは日本代表前川和也と、マリノスでは川口能活とポジションを争った。
身長185センチの恵まれた体格を生かしたハイボールの対応とタイミングの良い飛び出しで何度もピンチを救った。
1994年にはサンフレッチェ広島でチャンピオンシップ2試合とも出場。サンフレッチェの年間優勝がかかった試合ではビッグセーブを見せるもラモス瑠偉に芸術的なループシュートを決められてしまったシーンが印象深い。
1997年はアジア予選で抜けた川口能活の穴を見事に埋める活躍を見せた。
河野和正のJリーグ入り前
強豪校である大分県立中津工業高校に進学。全国高校選手権は大分県予選で大分鶴崎高校の前に涙し出場は果たせなかった。
1989年、河野は高校卒業後にマツダSC(現サンフレッチェ広島)に入団。
入団後はサテライトチームであるマツダSC東洋で経験を積み翌年にトップチームへと昇格。
しかしマツダには後の日本代表GKとなる前川和也がいた為に、トップ昇格後2年間は出場機会がなかった。
入団3年目の1991-1992シーズンにJSL初出場。この年はリーグ戦2試合に出場した。
翌年、Jリーグ開幕前年のJリーグカップには前川に代わり正GKに抜擢され8試合に出場を果たした。
河野和正のJリーグ入り後
1993年、Jリーグ開幕後は再び前川の控えに回ったが、サントリーシリーズ第16節ガンバ大阪戦で怪我の前川の代わりに先発でのJリーグデビューを果たし勝利に貢献。その試合以降も先発出場を続けリーグ戦21試合に出場を果たした。
1994年は開幕当初は前川が復帰した為、再び控えとなるが前川が怪我で離脱した際は先発出場を果たした。サントリーシリーズのサンフレッチェ広島優勝を決めたジュビロ磐田戦でもフル出場を果たした。
NICOSシリーズからは前川に代わり正GKとなり、同年のヴェルディ川崎とのチャンピオンシップにも出場。1戦目では北澤豪に、2戦目ではラモス瑠偉にゴールを決められ年間チャンピオンとはならなかった。
1995年もリーグ戦15試合に出場し、前川の控えGKではあるが一定の出場機会を得た。
しかし、その後は下田崇の台頭もありベンチ入りも難しくなった河野は1997年シーズンに名古屋グランパスエイトへ移籍。だが名古屋では出場出来ず、シーズン途中に横浜マリノスへ移籍した。
マリノスには川口能活という絶対的守護神がいたが、川口が代表戦で不在の間には代わりに出場を果たし、シーズン途中の加入ながらリーグ戦10試合に出場。川口の穴を見事に埋めた。
翌年の1998年には名古屋に復帰し、1999年にセレッソ大阪へ移籍。
セレッソでは下川誠吾の控えとなったが、セレッソ入団3年目に下川の代わりにリーグ戦12試合に出場。しかし同年、セレッソは成績が低迷しJ2に降格する。
2002年にはJ2でリーグ戦13試合に出場。セレッソ大阪のJ1昇格に貢献し、この年限りで現役を引退した。
河野和正の引退後と現在
河野和正は引退後、セレッソ大阪の下部組織のGKコーチに就任。その後はトップチームのコーチをへて2017年からは名古屋グランパスのGKコーチを務めている。
河野和正は現役時代、恵まれた体格と身体能力の高さから将来を期待されたGKの1人だ。
サンフレッチェでは前川和也が怪我がちな選手だった事もあり一定の出場機会を得た。
その後は名古屋グランパス、横浜マリノス、セレッソ大阪と渡り歩き残念ながら正GKの座を射止める事は出来なかったが、そのポテンシャルの高さがあるからこそセカンドGKとして重宝され続けたのだろう。
現在は名古屋グランパスにて、サンフレッチェ時代に苦楽を共にした風間八宏監督の元でGKコーチを務める河野和正。サンフレッチェの優勝を成し遂げたあの時のような躍進を期待したい。