1994年のアメリカW杯優勝のブラジル代表GKという肩書きを引っさげ、1995年にセレッソ大阪に入団した大型GKジルマール。
来日時は既に36歳という年齢であったが、ブラジルの名門サンパウロやフラメンゴで正GKを務めた実力は健在で、優れた反射神経で幾度となくビッグセーブを見せた。
キャリア晩年に遠い島国でのプレーを選択したジルマールだったが、練習から決して手を抜かず、セレッソ大阪のゴールマウスを3シーズンに渡り守り抜いた。
ジルマールはJリーグでプレーした外国人GKの中でも飛び抜けた経歴を持つ偉大な選手である。
ジルマールのJリーグ入り前
ジルマールは1959年にブラジル・リオグランデ・ド・スル州に生まれた。
1978年、ジルマールが19才の時にインテルナシオナルでサッカーキャリアをスタートさせた。
インテルナシオナルは1979年に3度目となるブラジル全国選手権を制覇するが、若手であるジルマールに出場の機会はなかった。
インテルナシオナルには1985年まで8シーズン在籍し、所属最終年である1985年にはリーグ戦20試合に出場するも、出場機会は8シーズンで25試合のみと不遇の時期を過ごす。
インテルナシオナルでは元日本代表監督のファルカンや元ブラジル代表監督のドゥンガらと共にプレーをした。
1986年、ジルマールはブラジル屈指の強豪であるサンパウロ FCへ移籍。
移籍初年度からリーグ戦22試合に出場するなど正GKとして活躍。この年、サンパウロはコパ・ブラジルで優勝を果たし、大会得点王にはサンパウロのカレカ(元柏レイソル)が選出されている。
この年、ジルマールはこの活躍を受けブラジル代表として初招集を受けている。
サンパウロには1990年まで在籍し、1991年にはリオデジャネイロ州の古豪であるCRフラメンゴへ移籍を果たす。
フラメンゴではジーニョ(元横浜フリューゲルス)とチームメイトとなった。
1992年には正GKとしてフラメンゴのカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA制覇に貢献している。
1994年、ジルマールはアメリカW杯に出場するブラジル代表GKに選出される。
正GKタファレル、第2GKゼッチに次ぐ3番手の位置付けながらベテランとしてベンチからチームを支え、ブラジル代表の優勝に貢献した。
1995年、Jリーグに昇格したばかりのセレッソ大阪からオファーを受けたジルマールは入団を表明。
36歳という年齢ながら現役ブラジル代表のW杯優勝メンバーのJリーグ加入は当時大きな話題を集めた。
ジルマールのJリーグ入り後
来日したジルマールはJリーグデビュー前に出場したサテライト戦でPK6本中4本を止め、「千手観音ジルマール」と新聞に大きく掲載されるなど注目を集めた。
同年のサントリーシリーズ第5節鹿島アントラーズ戦でJリーグデビューを飾る。
このサントリーシリーズでジルマールは全てのPKを止める活躍を見せる。
第6節のヴェルディ川崎戦でのビスマルク、第11節のジェフ市原戦でのルーファー、第21説の横浜フリューゲルス戦での前園真聖の蹴ったPKを全て止めて見せ、勝負強さを見せつけた。
猫の動きを模倣したと言われる俊敏な動きで幾多のビッグセーブを連発。
NICOSシリーズ第17節の横浜マリノス戦では0-0からPK戦に突入。
試合には敗れるも3本のPKを止めるなど神懸かり的な活躍を見せた。
ジルマール擁するセレッソはJFLから昇格1年目であったがサントリーシリーズは14チーム中9位、NICOSシリーズは14チーム中10位と健闘した。
1996年は開幕戦の横浜フリューゲルス戦からスタメン出場を続ける。
しかしセレッソはシーズン半ばで10連敗を喫するなど不調に陥る。終盤は立て直すも11勝19敗で16チーム中13位に終わった。
1997年は固定番号制となり、ジルマールは背番号21を背負った。
開幕戦の鹿島アントラーズ戦からスタメン出場を続けるが、1stステージ第8節の京都戦から5連敗を喫すると第13節のサンフレッチェ広島戦から武田治郎がGKを務めた。
ジルマールはこの1stステージ限りで引退を表明。
1stステージ最終節の鹿島アントラーズ戦ではスタメン出場を果たすも0-1で敗れ、鹿島アントラーズがこの試合の勝利で優勝を決めた。
試合を有終の美で飾れなかったジルマールだったが、試合後にはセレッソ大阪の選手のみならず鹿島アントラーズの選手からも胴上げをされ偉大な選手の引退に花を添える形となった。
ジルマールの引退後と現在
ジルマールは引退後、1998年W杯フランス大会でザガロ代表監督のアシスタントを務め、1999年にはフランメンゴのディレクターに就任。
その後FIFAで代理人のライセンスを取得した。
代理人として元ブラジル代表のアドリアーノを発掘した事でも知られる。
ジルマールは有能なブラジル人選手の代理人としてJリーグのチームと交渉にあたるなど日本との関係も続いている。
現役時代、ジルマールはセレッソ大阪での初練習の日に自身の守るゴール裏に通訳を立たせた。
ジルマールはポルトガル語で指示を出した言葉を全て通訳に記録させ、日本語に変換し1日で覚えた。
次の日からジルマールは日本語で指示を出し、チームメイト達は驚き、見る目が変わったという。
GKにとってコミュニケーションは非常に大切であるが、W杯を制した男がJリーグ1年目のシーズンを戦うチームで練習初日に行ったこの行動は誰にでも到底出来る事ではない。
プロフェッショナルとは何なのか。
ジルマールは日本にその答えを行動で示してくれた貴重なレジェンドの一人だ。