最終ラインから最前線まで、どのポジションにおいても高いレベルでプレー出来るユーティリティプレーヤー、柳想鐵(ユサンチョル)。
1998年にはKリーグ得点王の実績を提げ、Jリーグに参戦し、2000年にはマリノスで主にFWとしてプレーし17得点を挙げ、1stステージ優勝に貢献。
ユサンチョルは韓国代表としても1998年、2002年と2大会連続でワールドカップに出場を果たすなどその栄光も輝かしい。
柏レイソルやKリーグでプレー後の2003年には再びマリノスに復帰し、得点力のあるボランチやサイドバックとしてピッチで躍動。
韓国人選手として初めてJリーグの完全優勝を達成した。
ユサンチョルは記録にも記憶にも残る偉大な韓国人Jリーガーとして今も尚、サポーターに愛されている。
アジアを代表する稀代のユーティリティプレイヤー、ユサンチョル に迫る。
柳想鐵(ユサンチョル )のJリーグ入り前
小学校、中学校、高校とサッカーに打ち込む日々を送り、韓国の私立大学である建国大学校へ入学。
1994年、大学を卒業したユサンチョルはKリーグの蔚山現代FCへ入団すると、ルーキーながら26試合に出場し5得点を挙げ、この年のKリーグベスト11に選出される活躍を見せる。
韓国代表にも選出されると、広島で行われたアジア競技大会に出場した。
準々決勝の日本戦ではゴールを決め、3-2での勝利に貢献したが続く準決勝でウズベキスタンに0-1で敗れた。
その後も蔚山現代FCと韓国代表の中心選手として活躍。
1998年には23試合で15得点を挙げ、Kリーグ得点王とベストイレブンに選出された。
1998年フランスワールドカップに韓国代表として出場を果たした。
この活躍を受け、Jリーグの横浜・Fマリノスから獲得のオファーが届く。
ユサンチョルは更なるステップアップを目指して初めての海外移籍を果たすことになる。
柳想鐵(ユサンチョル )のJリーグ入り後
マリノスに入団したユサンチョルは背番号8を与えられ、本職のボランチとしては勿論、FWやセンターバックとしてもプレー。
加入初年度は22試合に出場し7得点を挙げた。
移籍2年目のシーズンとなった2000年には主にFWとしてプレーし、エジミウソンや中村俊輔、遠藤彰弘などと息の合ったコンビネーションを見せた。
リーグ戦では17ゴールを挙げ、ナビスコカップでは得点王となったユサンチョルは1stステージの優勝に大きく貢献する事となった。
その年の年末、Jリーグアウォーズの会場で柏レイソルの西野朗監督、韓国の先輩でもある洪明甫(ホンミョンボ)から来年共にプレーをしないかと誘いを受ける。
本気には捉えていなかったユサンチョルだが、実際にオファーが届き契約を結ぶことになる。
柏レイソルには洪明甫の他に、韓国代表でも共にプレーした黄善洪(ファンソンホン)が在籍しており現役韓国代表選手が3人揃う形となった。
柏ではFWとして出場する機会が多く、移籍初年度は9得点を挙げたが、柏レイソルは能力の高い選手が多く在籍しているのに関わらず1stステージが6位、2ndステージが7位と優勝争いに絡めずに終わった。
2002年、ユサンチョルは韓国代表として日韓ワールドカップに出場し韓国ベスト4入りに貢献した。
ワールドカップ終了後に欧州移籍を目指したユサンチョルはシーズン途中に柏レイソルを退団したが移籍は実現せず、古巣である蔚山現代FCに復帰した。
2003年シーズン途中、再びマリノスから獲得オファーが届く。
マリノスの岡田武史監督はJリーグでのキャリアもあり、マルチに働けるユサンチョルの獲得を熱望。
本職のボランチかFWでの獲得かと予想されたが、サイドバックとしてのオファーであった。
岡田武史監督から「ブラジル代表のカフーか柳想鐵で迷ったが、Jリーグでの経験のある君にオファーを出した。今は右サイドがいないからそこに入ってほしい。」と言われ見事にその期待に応える。
フィジカルを生かしたディフェンスとセットプレーの強さを見せ、右サイドバックとして活躍。
ファーストステージとセカンドステージを制覇しチームを完全優勝に貢献した。
マリノスには2004年まで在籍し、2005年に蔚山現代FCに復帰した。
2005年も主力としてリーグ戦18試合に出場するも膝の故障によりこのシーズン限りで現役を引退した。
柳想鐵(ユサンチョル )の引退後と現在
ユサンチョルは引退後、2006年に韓国でサッカーアカデミーを開設。
その後は2009年から春川機械工業高等学校サッカー部監督を務め、2011年7月よりKリーグ・大田シチズン監督に就任した。
2014年には蔚山大学校サッカー部監督を務め、2017年12月4日、Kリーグ・全南ドラゴンズの監督に就任した。
しかし2021年6月7日19時頃、膵癌のためソウル市内の病院で死去した。
ユサンチョルについて精神的な強さを物語るエピソードがある。
高校時代、左目の視力が急激に落ち、プロになる頃には左目は殆ど失明状態であったという。
この事は現役時代、母親のみにしか打ち明けず、視力検査は正常な右目でカバーしてクリアしていた。
ナイターの試合では照明の眩しさを一方の目で堪えながら、黙々と試合に臨んできたという。
ハンディキャップがあるにもかかわらず、どのポジションでも高いレベルでこなすアジアを代表するユーティリティプレーヤーとなったユサンチョル 。
知られれば弱点となるであろう視力の問題を、誰にも打ち明けずに戦ったユサンチョルの12年間の現役生活の過酷さは到底計れるものではない。