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和田昌裕の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第120回】

創世記のガンバ大阪やヴィッセル神戸で活躍した和田昌裕。

スイーパーからゲームメーカーまでこなせるユーティリティなプレーヤーだった為、チームからは重宝された。

和田昌裕は1993年にガンバ大阪のJリーグ初ゴールをマークした事でも知られる。

晩年は左サイドバックとしてプレーする事が多く、タイミングの良い攻め上がりと的確なパスフィードを武器に何度もチャンスを演出した。

和田昌裕のプロ入り前


和田は1965年に兵庫県神戸市に生まれた。

幼い頃は野球少年であったが、8歳の時に兄の影響でサッカーを始める。

小学校の時は足が速かった為、FWでプレーをしていた。

上野中学校進学後、地域選抜に選出されるなど頭角を現し進学校で知られる兵庫県立御影高校へ進む。

和田は高校2年の時にU16日本代表に選出され、キャプテンとしてシンガポールでのアジア選手権に参加した。

高校3年時には全国高校サッカー選手権大会に兵庫県代表として出場を果たす。

一回戦で山梨県の韮崎高校に敗れるが、和田は大会優秀選手に選出され、高校選抜として欧州遠征に参加した。

近所の御影工業高校には同級生に永島昭浩がおり、この頃から2人は周囲からライバルと目されていた。

和田は高校卒業後、サッカーの名門である順天堂大学へ進学。

大学1年の時に総理大臣杯で筑波大学を破って優勝を経験。

大学時代に市立船橋高校で教育実習を終え、教職につく準備を進めていたが、日本サッカーリーグの三菱重工(現浦和レッズ)と松下電器(現ガンバ大阪)から誘いがあり、和田は盟友である永島昭浩が在籍していた松下電器へ加入することになる。

松下電器に加入した和田は1988-1989シーズンにアシスト王を獲得。

永島昭浩、久高友雄本並健治らと松下電器の中心選手としてプレーした。

25歳の時に日本代表に選出され、中国で開催された第1回ダイナスティカップに参加したが出場機会はなかった。

1992年に松下電器はガンバ大阪へ改称。

和田はガンバ大阪とプロ契約を結び、Jリーガーとなった。

和田昌裕のプロ入り後

1993年、釜本邦茂監督の元でプレーし、開幕試合の浦和レッズ戦で前半29分に先制ゴールを決める。

このゴールはガンバ大阪Jリーグ第1号ゴールとなった。

その後もレギュラーとして出場を続け、Jリーグ初年度はリーグ戦34試合に出場し2得点を挙げた。

しかし1994年はリーグ戦3試合、1995年は12試合と出場機会が減り1995年に永島昭浩と共にJFLのヴィッセル神戸へ移籍。

阪神大震災の被災地を盛り上げる為に、和田はそれまでの経験を注ぎ主軸として活躍。

移籍2年目の1996年にはリーグ戦30試合に出場し、ヴィッセル神戸Jリーグ昇格の原動力となった。

1997年、ヴィッセル神戸の選手として再びJリーグの舞台に戻るもこの年は出場機会がなくこの年限りで引退を表明した。

和田昌裕の引退後と現在

和田は引退後、1998年からヴィッセル神戸のフロントに入りスクールの運営やジュニアユースの監督を歴任。

2005年にはヴィッセル神戸のヘッドコーチ、2006年には強化部長、2007年にはチーム統括本部長を務め、2010年から2年間ヴィッセル神戸の監督を務めた。

2014年にはタイのチョンブリーFCの監督に就任。

生活文化も環境も違う中で和田は日本流の指導を浸透させ、チームをリーグ戦2位にまで引き上げ、和田自身もタイプレミアリーグの最優秀監督賞を受賞した。

2015年には京都サンガの監督を務め、現在はツエーゲン金沢のアカデミー本部長に就任。

2020年にはガンバ大阪の取締役GMに就任している。

多くの日本人選手が海外に活躍の場を移し活躍するのが当たり前になってきている昨今、今後は海外に活躍の場を移す指導者も増えていくだろう。

言論、文化、環境、天候など乗り越えないと行けない壁は多いが和田昌裕のように日本人指導者が海外で結果を出すことで日本サッカーが世界に認められるきっかけになるのだと感じる。

日本人監督が当たり前のように海外クラブチームで指揮を執る。

そんな未来も近いのかもしれない。

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