日本サッカーが世界へ出ていく。

その扉を開いた選手の一人が、中田英寿だった。

1995年にベルマーレ平塚でプロデビューすると、わずか数年で日本代表の中心選手へと成長。

1998年フランスワールドカップ後にはイタリア・セリエAのペルージャへ移籍し、海外でプレーする日本人選手の先駆者となった。

その後、ASローマではスクデットを獲得。

パルマではコッパ・イタリア優勝にも貢献し、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトンでもプレーした。

強烈なミドルシュート。

相手に身体を寄せられても簡単には倒れない強さ。

そして、味方の動きを一瞬で見抜いて送り込む鋭いパス。

日本サッカー界に大きな足跡を残した中田英寿に迫る。

中田英寿のプロ入り前

中田英寿は1977年1月22日、山梨県甲府市に生まれた。

サッカーを始めたのは8歳の頃。

その後、山梨県内で頭角を現していった中田は、県選抜、関東選抜、年代別の日本代表へと進んでいく。

高校は山梨県立韮崎高校へ進学。

高校時代からすでに全国レベルの選手として知られていた。

1993年に日本で開催されたU-17世界選手権にも出場。

この大会には後に日本代表として活躍する宮本恒靖松田直樹らも出場していた。

日本はこの大会でベスト8まで進出している。

高校時代の中田は、ただ技術に優れた選手だったわけではない。

身体の強さがあり、判断も速い。

そして何より、周囲の選手を使いながら自分も前へ出ていくことができた。

高校卒業を前にすると、その評価はさらに高まった。

1995年、Jリーグ12クラブのうち11クラブからオファーを受ける。

その中から中田が選んだのが、ベルマーレ平塚だった。

当時のベルマーレ平塚には、名塚善寛田坂和昭小島伸幸、そしてベッチーニョら個性豊かな選手が在籍していた。

そのチームに高校卒業直後の中田が加わったのである。

中田英寿のプロ入り後

1995年。

ベルマーレ平塚でプロとしてのキャリアをスタートさせる。

当初の中田は現在知られているトップ下の選手とは少し違った。

1996年にはゲームメイク能力を買われ、トップ下へコンバート。

ここから中田の才能が一気に開花していく。

1996年にはアトランタオリンピックに出場。

ブラジルとの初戦では、日本が1-0で勝利する「マイアミの奇跡」を経験した。

このチームでは、前園真聖がキャプテンを務め、中田は司令塔としてプレー。

伊東輝悦城彰二らとともに、若き日本代表を支えた。

そして1997年にはJリーグでベストイレブンに選出。

さらにAFC年間最優秀選手にも選ばれた。

まだ20歳だった。

ベルマーレ平塚のクラブ史にも、この年に中田がJリーグベストイレブン、AFC年間最優秀選手、全国のサッカー担当記者が選ぶ年間最優秀選手に選出されたことが記録されている。

そして1998年。

中田は日本代表としてフランスワールドカップに出場する。

日本は初めてワールドカップ本大会に出場。

中田は3試合すべてに出場した。

大会終了後、中田のもとには海外クラブからのオファーが届く。

そして選んだのがイタリア・セリエAのペルージャだった。

ここから中田英寿の海外挑戦が始まる。

1998年7月のペルージャ移籍は、日本人選手がヨーロッパのトップリーグへ挑戦する流れを大きく変える出来事となった。

ペルージャで迎えたデビュー戦の相手は、いきなりユベントス。

中田は2ゴールを決め、鮮烈なセリエAデビューを果たした。

その後もイタリアで結果を残し、2000年1月には名門ASローマへ移籍する。

ローマにはフランチェスコ・トッティ、ガブリエル・バティストゥータ、カフー、カンデラら世界的な選手が揃っていた。

中田はその中で出場機会を争うことになった。

そして2000-01シーズン。

中田にとって忘れられない試合が訪れる。

ユベントスとの一戦だ。

ローマは2点を先行される苦しい展開だった。

途中出場した中田は、強烈なミドルシュートを決めて反撃のきっかけを作る。

さらに中田のシュートからモンテッラが同点ゴール。

2-2の引き分けに持ち込み、ローマはその後の優勝争いで重要な勝ち点を手にした。

そして2000-01シーズン、ASローマはセリエA優勝。

中田は日本人として初めてセリエAのスクデットを手にした選手となった。

2001年夏にはパルマへ移籍。

ここでも中田は大きな仕事をする。

2001-02シーズンのコッパ・イタリア決勝。

相手は再びユベントスだった。

第1戦で中田は途中出場すると、強烈なボレーシュートを決める。

このゴールがアウェーゴールとなり、パルマは第2戦を1-0で勝利。

2試合合計でユベントスを上回り、コッパ・イタリアを制した。

その後、中田はボローニャ、フィオレンティーナへ移籍。

2005年にはイングランドのボルトン・ワンダラーズへレンタル移籍した。

日本人としてイタリアで長くプレーしてきた中田にとって、最後の挑戦はプレミアリーグだった。

そして2006年。

ドイツワールドカップに出場。

オーストラリア、クロアチア、ブラジルとの3試合すべてにフル出場した。

日本はグループリーグで敗退。

ブラジル戦が中田にとって最後の公式戦となった。

大会終了後の7月3日、中田は自身の公式サイトで現役引退を発表した。

29歳だった。

中田英寿のプレースタイル

中田英寿のプレーを語るうえで、まず外せないのがフィジカルの強さだ。

身長175cm。

決して大柄な選手ではない。

しかし、相手に身体を寄せられても簡単には倒れない。

ボールを受けた時に相手を背負いながらキープし、そのまま前を向く。

この強さが、セリエAという激しいリーグで戦ううえで大きな武器になった。

そして、もう一つの大きな武器がパスだ。

中田はボールを持ってから考えるのではなく、ボールを受ける前に周囲を見ている。

味方がどこへ走り出すのか。

相手の守備がどこに集中しているのか。

その一瞬を見逃さず、前線へ鋭いパスを送り込む。

いわゆる「キラーパス」と呼ばれたものだ。

日本代表でも中田のスルーパスからチャンスが生まれる場面は多かった。

ただ、中田を「パスの上手いトップ下」だけで説明することはできない。

ミドルシュートも強烈だった。

特にペナルティエリア外からのシュートは中田の代名詞の一つ。

ローマ時代のユベントス戦で見せた一撃は、その象徴ともいえる。

さらに中田は、攻撃だけをしていればいい選手でもなかった。

中盤で身体を張り、守備にも走る。

味方のためにスペースを作り、ボールを失えばすぐに奪い返しに行く。

だからこそ、単純な「ファンタジスタ」とは少し違う。

華麗な技術だけで観客を魅了するのではなく、強さ、判断力、運動量、パス、シュートを組み合わせてチームに違いを作る。

それが中田英寿という選手だった。

中田英寿の引退後と現在

2006年に29歳で現役を引退した中田。

引退後は、サッカー界に残って指導者や解説者になる道を選ばなかった。

世界各地を旅し、さまざまな文化や人々と触れ合うようになる。

そして、そこで日本文化を改めて見つめ直すことになった。

特に力を入れるようになったのが日本酒だった。

現在は日本酒をはじめ、日本の文化や伝統に関わる活動を続けている。

また、社会貢献活動にも取り組み、2008年にはTAKE ACTION FOUNDATIONを立ち上げた。

サッカーを通じて社会に働きかける活動にも取り組んでいる。

現役時代には日本代表として77試合に出場し11得点。

Jリーグでは85試合16得点。

セリエAでは182試合24得点を記録した。

わずか29歳でスパイクを脱いだ中田英寿。

しかし、そのキャリアは決して短かったとは言えない。

ベルマーレ平塚からペルージャへ。

ペルージャからローマへ。

そしてパルマ、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトンへ。

日本代表としては3度のワールドカップに出場した。

1998年のフランス。

2002年の日韓。

2006年のドイツ。

日本サッカーがまだ世界の強豪国と同じ舞台で戦うことに慣れていなかった時代。

その中心には、いつも中田英寿がいた。

強い身体。

鋭いパス。

正確な判断。

そして、遠くからゴールを狙うミドルシュート。

中田英寿は、日本人選手が世界で戦えることを自らのプレーで証明した選手だった。

日本サッカーの歴史を振り返る時、彼の名前を外すことはできない。

中田英寿。

日本サッカーが「世界」を現実の目標として見るようになった時代、その先頭を走っていた男である。

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