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第332回 ジュニーニョってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

爆発的なスピードと、変人自在なドリブルを武器にJ、リーグの舞台で得点を量産したストライカー・ジュニーニョ。

2003年に川崎フロンターレに加入すると、背番号10を背負ったジュニーニョは、チームのエースとして君臨し、実に9シーズンを川崎で過ごすことになる。

大舞台に強く、大事な局面で常に得点という結果をだしてきたジュニーニョ。2004年にはJ2得点王、2007年にはJ1得点王に輝くなど、リーグ戦で通算181ゴールを奪っている。特にJ2では出場78試合で65得点、1試合あたり0.85ゴールという驚異的な数字を残している。

2004年、川崎フロンターレは悲願のJ1昇格を果たし、タイトルを取れずに苦しんだ時期を乗り越え、現在では、Jリーグ屈指の常勝軍団へと進化していくことになるが、その過程には、ジュニーニョの存在があり、彼を無くしてはフロンターレの歴史をを語ることは出来ない。

ジュニーニョのJリーグ入り前

ジュニーニョは、1977年にブラジルのサルバトールに生まれた。

地元のクラブであるECバイーアの下部組織でサッカーを学び、17歳の時にトップチームに昇格する。 バイーアでは、若かりし頃のジョルジ・ワグネルや、後にJリーグ得点王に輝いたウェズレイとともにプレー。

この頃、ジュニーニョは、ブラジルU20代表に選出され、4試合に出場している。

その後は、ヴィラ・ノヴァFC、ウニオン・サンジョアンECというブラジル国内のクラブを転々とし、2000年にパルメイラスに加入する。

パルメイラスでは、スピードと運動量を生かして、主にサイドアタッカーとして活躍。

2002年には、FWにコンバートされるも得点数は伸びず、チームの2部降格を味わった。

一時期はFCバルセロナからオファーを受けるなど、将来を嘱望されていたジュニーニョだが、自身の不調やチームの降格もあり、満足のいくシーズンを送れずにいた。

2003年、26歳の時に当時J2の川崎フロンターレからオファーを受け、期限付き移籍を決断する。

ジュニーニョのJリーグ入り後

ジュニーニョは、2003年3月15日のJ2リーグ開幕戦であるサンフレッチェ広島戦でデビューを果たす。続く第2節湘南ベルマーレ戦ではJリーグ初ゴールをマーク。

ジュニーニョは、加入1年目ながら、リーグ戦39試合で28ゴールを決めるなど活躍し、フロンターレは年間88得点というリーグ屈指の攻撃力を誇ったが、勝ち点差で僅かに及ばずにJ1昇格を逃した。

2年目のシーズンとなった2004年。川崎フロンターレはJ2で圧倒的な強さを見せる。我那覇和樹と2トップを組んだジュニーニョは、39試合に出場し37ゴールをマーク。得点ランキング2位の大島秀夫、我那覇の22得点に大きく差をつけ、得点王に輝いた。フロンターレは、開幕からトップを独走し、9月には悲願のJ1昇格を果たした。

自身初のJ1リーグでの戦いとなった2005年は、開幕戦の柏レイソル戦でJ1初ゴールを決め、3試合連続でゴールをマーク。第27節の名古屋戦ではハットトリックを記録するなど16ゴールをマークし、フロンターレは8位になるなど健闘をみせた。

2006年シーズンは、20ゴールを決め、リーグ戦2位、そそてACL出場権の獲得に貢献。盟友・中村憲剛とのホットラインも生まれ、得点のバリエーションも飛躍的に増えた。

2007年シーズンは、鄭大世と2トップを組み、22ゴールをマークし得点王を獲得。チームは年間順位5位となるなど、前年度の成績を下回ったが、ジュニーニョ自身はベストイレブンに選出されるなど、充実したシーズンを送った。

2008年、2009年も不動のレギュラーとして、フロンターレの攻撃の軸となり、最後まで優勝争いを演じたが、2年連続で、わずかの勝ち点差で鹿島アントラーズに優勝を譲るという悔しいシーズンとなった。

この頃、ジュニーニョには、日本への滞在期間が6年程を過ぎていたこともあり、日本国籍の取得を期待する声が高まった。本人もメディアに対して、前向きな発言をしたとされるが、ユース時代にブラジル代表に選出された経験があること等が理由で、実現はしなかった。

2011年、自身初の1桁得点でシーズンを終えると、フロンターレを退団し、鹿島アントラーズへ移籍。

鹿島では、ストライカーとしての役割よりも、チャンスメイクの立場に徹し、大迫勇也やダヴィといったストライカーのフォロー役を担った。

2013年、鹿島で2年間を過ごした後、退団。ブラジルに帰国する。

ジュニーニョの引退後と現在

ジュニーニョは鹿島アントラーズ退団後、ブラジルに帰国。

しばらく無所属の状態が続いたが、2015年、ジュニーニョが37歳のときに、故郷バイーア州のジュアゼイレンセと契約を結び、実践復帰。バイーア州選手権の準決勝では、年齢を感じさせぬ動きで貴重なゴールを挙げている。

息の長い活躍を見せたが、現在は引退し、サッカースクールの運営を行っており、ジュニアユース年代の育成に注力している。

全盛期のジュニーニョは、圧倒的なスピードを武器に、得点を量産するストライカーであったが、年齢とともに、自分を生かすプレースタイルから、相手を生かすプレースタイルへと変化を遂げた。

前線で構えるだけでなく、激しい上下動を繰り返し、チームにとって最善のプレーを選択するジュニーニョがいたからこそ、現在の川崎フロンターレがあるのではないだろうか。

また、ジュニーニョはピッチの中だけでなく、オフ・ザ・ピッチでも大きな信頼を得ていた。レギュラーを外れても、怪我をしても、腐ることなく、淡々と準備をして、チームにできることをしようとする彼のサッカーに取り組む姿勢は、多くの選手に良い影響を与えた。

選手としても、人間としても、非常に頼もしい存在であったジュニーニョ。燦燦と輝き続けた“川崎の太陽”は、ピッチの外でもチームを照らし続けた。