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第328回 ブッフバルトってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

1994年、またもやJリーグにワールドクラスの選手が加入した。

ドイツ代表・ギド・ブッフバルト。

ドイツ・ブンデスリーガの名門VfBシュトゥットガルトで11シーズンを過ごし、1990年イタリアワールドカップでは西ドイツ代表の3度目の優勝に貢献した鋼のフィジカルを持つストッパーだ。

ブッフバルトは、圧倒的な統率能力と、類まれなる攻撃力を武器に、マラドーナやカレカというワールドクラスの選手に仕事をさせず、UEFAカップ優勝、そしてブンデスリーガでの優勝に貢献した。

そんな世界トップクラスのブッフバルトは、1994年のセカンドステージから浦和レッズに加入する。

数々の栄光を手にしてきたブッフバルトに課された使命は、下位に低迷する浦和レッズのディフェンス陣の再建であった。

ブッフバルトのJリーグ入り前

ブッフバルトは、1961年に西ベルリンに生まれた。

1969年、8歳のときにSVバンバイルに入団し、サッカーを始める。身長が高かったため、ポジションはFWだったが、17歳のときにボランチへに転向する。

1978年、18歳のときにドイツ2部のシュツットガルター・キッカーズと契約し、プロデビュー。

入団1年目からレギュラーとして活躍し、守備的な選手ながら2年目にはリーグ戦8得点をマークし、攻撃的センスの片鱗をうかがわせる。

1980年には西ドイツU21代表に選出され、1983年にはドイツ1部のシュツットガルトに移籍する。

シュツットガルトには11シーズン在籍し、ボランチやセンターバックとして活躍。シュツットガルトでは2度のリーグ優勝を経験した。

1984年、西ドイツ代表に初選出されると、1990年、1994年と2大会連続でワールドカップに出場する。

中でも主力として挑んだ1990年ワールドカップでは決勝戦のアルゼンチン戦でエースのマラドーナを徹底的に封じ込むことに成功し、西ドイツの優勝に貢献。大会MVPは得点王で後にジュビロ磐田に入団するスキラッチに譲ったが、影のMVPと称えられた。

ブッフバルトは、ドイツ代表として76試合に出場し、ブンデスリーガでは325試合に出場するなど偉大な成績を収める。

1993-1994シーズンもシュツットガルトで主力として活躍していたが、Jリーグの浦和レッズからオファーを受け、入団を決意する。

ブッフバルトのJリーグ入り後


WCCF FOOTISTA 【FOOTISTA 変換済み】【11-12 ATLE】ギド・ブッフバルト

ブッフバルトは、1994年2ndステージ第一節横浜マリノス戦でJリーグデビューを飾る。

この試合で背番号6をつけたブッフバルトは、センターバックではなくボランチに入り、バイン、ルンメニゲというドイツ人選手の後ろでアンカーの役割を担ったが、デビュー戦は0ー3で敗北した。

第2節からはセンターバックに入り、田口禎則、曺貴裁らと屈強なディフェンスラインを形成。 それまで失点数最多でJリーグのお荷物とまで言われた浦和レッズを見事に安定させる活躍を見せる。

第7節横浜フリューゲルス戦では、試合終了間際に劇的な決勝点をマークし、1-0での勝利に貢献。ブンデスリーガ時代から高い評価を受けていた攻撃的センスも垣間見せた。

ブッフバルトは1994年シーズンは、最終戦の途中交代をのぞき、フル出場を続け、レッズの守備を前年より見違えるように安定させたが、チームは4連敗を喫するなど、まだ不安定な部分が多く12チーム中11位に沈んだ。

1995年、ドイツ人指揮官のホルガーオジェックが監督に就任すると、ブッフバルトは益々輝きを見せる。 3バックの中央に君臨し、相手の攻撃の芽を摘むと、積極的なオーバーラップを見せ、ビルドアップの中心として活躍した。

この安定したブッフバルトの活躍の影響もあり、バイン、福田正博、岡野雅行という攻撃陣が輝きを見せ、1stステージ終盤には6連勝を記録。1stステージで3位に入り込むなどレッズの躍動に大きく貢献した。

2ndステージも開幕戦でゴールを決め、序盤から4連勝するなど、飛躍を期待されたが、中盤で7連敗を記録するなど失速。最終的には8位となったが、年間成績では4位に入り、ブッフバルトはJリーグベストイレブンに選出された。

1996年シーズンも変わらず中心選手として活躍。年間順位は6位だったが、31失点でリーグ最少失点数に抑える活躍を見せ、この年もベストイレブンに選出された。

1997年シーズンは、推定年俸1億2000万円で契約を更改。チームの大黒柱として圧倒的な存在感を誇っていたブッフバルトは36歳という年齢に差し掛かっていたが、体力的な衰えを見せず、フル出場を続けた。

しかしこのシーズンは優勝戦線に絡むことはできず、年間順位10位となり、このシーズンを持って浦和を退団した。

浦和レッズの退団セレモニーには白馬に乗って登場。外国人選手の大々的な退団セレモニーは非常に珍しく、当時は大々的に報道された。ブッフバルトは、駒場スタジアムに駆け付けた退団を惜しむサポーターに別れを告げ、日本を去った。

浦和退団後はブンデスリーガに復帰。入団したカールスルーエは1年で2部に降格するも、ブッフバルトはチームに残留。しかしチームは年間順位5位に留まり、1部に昇格できなかったため、この年をもって現役を引退した。

ブッフバルトの引退後と現在

ブッフバルトは引退後、指導者に転身。

プロ1年目に入団したシュトゥットガルト・キッカーズでコーチを務めた。

その後は2002年に来日し、浦和レッズのテクニカルディレクターを務めた後に2004年から3シーズン監督を務めた。

2005年には天皇杯で優勝し、2006年には、リーグ戦、天皇杯で優勝を飾るり、ブッフバルトは年間最優秀監督賞を受賞した。この年は田中マルク闘莉王、小野伸二、長谷部誠、ポンテ、ワシントンなど戦力も充実しており、浦和レッズは圧倒的な強さを見せた。

その後はドイツに帰国し、指導者、解説者を務める傍ら、日本サッカー協会とアドバイザー契約を結び、日本との関係性は続いている。

1994年にブッフバルトが加入していなければ、その後の浦和レッズの躍進はなかったのではないだろうか。

ワールドクラスの選手が加入しても、Jリーグに順応できずに退団する選手が多い中、ブッフバルトは加入当初から圧倒的な存在感を見せた。

年齢的にもピークは過ぎていたはずだが、特に、最終ラインでの的確な指示とカバーリング、チャンスと見るや駆け上がっていき得点を奪うシーンはヨーロッパで活躍していた姿を彷彿させた。

そして多くのサポーターの心を掴み、今もなおレッズサポーターに愛されるブッフバルト。

彼が浦和レッズに残した功績は限りなく大きい

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