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FW

第251回 後藤太郎ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

身長164センチと小柄ながら、スピードを生かしたプレーで活躍したFW後藤太郎。
 
一瞬の瞬発力に長けており、裏への飛び出しと絶妙なポジショニングで得点を重ねた。
 
Jリーグ開幕元年の1993年には名古屋グランパスでジョルジーニョに次ぐチーム2位となる6得点をマーク。
 
ゴール後の派手なパフォーマンスが注目されたJリーグ創成期だったが、後藤太郎はゴールを決めても控えめにガッツポーズをするだけでありその謙虚な姿勢が逆に注目を集めた。
 
1997年から所属したサガン鳥栖ではチームの初代キャプテンとしてプレーし精神的支柱としてチームを支えた。

後藤太郎のJリーグ入り前

後藤太郎は1969年に広島県に生まれた。 
 
小学校3年生からサッカーを始め、中学校の時に広島県の学校から山口県下関市の学校へ転校。
 
中学卒業後にサッカーの名門である東海大学付属第五高校(現・東海大学付属福岡高校)へ入学した。高校時代はインターハイに出場するなどし、福岡県選抜に選出される活躍を見せた。
 
高校卒業後は、東海大学へ進学。同級生には飯島寿久礒貝洋光、澤登正朗、加藤望がいた。大学時代は関東大学リーグ制覇や選手権などのタイトルを獲得し、東海大学の黄金期を支えた。
 
1992年、名古屋グランパスエイトからオファーを受けて入団する。

後藤太郎のJリーグ入り後

1993年Jリーグ開幕元年、平木隆三監督の元、5月16日1stステージ第1節鹿島アントラーズ戦で浅野哲也に代わって後半から出場。これが後藤太郎のJリーグデビュー戦となったが試合は0-5で大敗してしまった。
 
続く第2節浦和レッズ戦では右サイドハーフとして先発出場し、左からのクロスをゴール中央から右足で押し込んでJリーグ初ゴールをマーク。3-0での勝利に貢献した。


第9節ジェフ市原戦では沢入重雄とツートップを組み先発出場を果たすと、後半開始直後に右サイドから抜け出して先制ゴールをマーク。余談だがこのゴール後は片手を上げて飛び跳ねて喜びを表している。
 
その後もエスパルス戦やガンバ戦でも得点を挙げ、このシーズンはチーム2位となる6ゴールをマーク。このシーズンのゴールは全て利き足の右足によるものだった。
 
1994年は出場機会を増やし、リーグ戦24試合に出場するも得点は第12節のジュビロ磐田戦での1ゴールに留まった。
 
1995年ジェフユナイテッド市原へ移籍。
 
移籍1年目は途中出場が多いながらもリーグ戦12試合に出場。スピードに乗ったドリブルで攻撃にアクセントを与えた。しかし翌年は出場機会が減少。カップ戦のみの出場に留まり、リーグ戦への出場の機会はなかった。
 
1997年、JFLのサガン鳥栖に移籍。
 
鳥栖では初代サガン鳥栖主将に就任。加入初年度は左足首靭帯を痛めながらも攻撃の中心としてチームを牽引。2年間プレーし、1999年のサガン鳥栖J2昇格を見届け引退を表明した。

後藤太郎の引退後と現在

後藤太郎は引退後、サガン鳥栖のユースや徳山大学サッカー部の監督を歴任。
 
現在は母校である東海大学サッカー部の監督に就任している。
 
1997年、PJMジャパンという企業を親会社に持つ鳥栖フューチャーズが経営不振により解散。しかし復活を望むサポーターが5万人の署名を集め、任意団体の設立と運営計画がJリーグに超法規的措置として認められて新たなチーム「サガン鳥栖」が誕生。その初代キャプテンに任命されたのが27歳の後藤太郎だった。
 
誕生したばかりのチームには何もなかった。Jリーグチームから練習着が支給され、地元高校からビブス、用具メーカーからボールが寄贈された。プレーする環境を整えながらシーズンを戦っていく過酷な状況だった。
 
後藤はJリーグでの自身の経験を誕生したばかりのサガン鳥栖に注ぎ、2年間チームの為に走り続けた。チーム発足から2年後、サガン鳥栖はJ2へ昇格することになる。
 
誕生したばかりの、まだ何もなかったサガン鳥栖に与えた後藤太郎の功績は大きい。