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第223回 高木和道ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

空中戦の強さや正確なロングフィードを武器に18年間に渡り現役で活躍したDF高木和道。

2008年から2009年にかけて日本代表にも選出。ワールドカップアジア予選を含めた5試合に出場した。

18年間の現役生活はJ1、J2、JFL、海外と多岐に渡るがその何れのチームにおいても高木和道はDFの軸として活躍。

最終ラインに安定感をもたらせる守備の要として高木和道は戦い続けた。

高木和道のプロ入り前

高木和道は1980年に滋賀県野洲市に生まれた。

祖父、父親共に柔道をしていた高木だが、小学3年の頃近所にできたサッカークラブの募集をみて北野サッカースポーツ少年団に入団する。チームメイトには坂本紘司がいた。

小学校卒業後、野洲町立野洲北中学校を経て滋賀県立草津東高等学校に入学。

この頃までさまざまななポジションを経験してきたが監督に勧められ、本格的にDFとなる。

高校3年時に全国高校サッカー選手権に出場を果たすが2回戦で帝京高校に0-1で敗れている。

草津東高校を卒業後は京都産業大学に進学。

大学2年だった2000年2月に清水エスパルスの石垣島キャンプへの参加。プレーが認められて清水からオファーを受ける。

大学卒業後は就職するつもりだったが斉藤俊秀、戸田和幸、澤登正一朗らのプレーを間近で感じ、これからも刺激を受けたいと6月に大学を中退しセンターバックとして清水エスパルスに入団する事になる。

高木和道のプロ入り後

2001年5月3日第7節節コンサドーレ札幌で初出場を果たすものの、入団3年間は斉藤俊秀、森岡隆三の牙城を崩せず3年間でリーグ戦5試合の出場に留まる。

2003年にリーグ戦16試合に出場するもレギュラー獲得までは至らず、2004年にヴィッセル神戸へ半年間のレンタル移籍を経験。半年間の在籍ながら守備の要として活躍し、2005年に清水エスパルスへ復帰する。

清水復帰後はレギュラーを獲得。2005年9月3日第22節川崎フロンターレ戦では88分に高木のゴールにより清水エスパルスが逆転。勝利を納めた。

安定した守備と日本の課題であった高さを兼ね揃えた高木は2008年に日本代表に初選出。
8月20日ウルグアイ戦では岡田武史監督に抜擢され、センターバックで中澤佑二とコンビを組んだ。

最終的に1-3で敗れることになるが、日本代表として一度だけ先発出場の機会を得て世界を体感したこの記憶は10年経っても薄れないと高木は後年語っている。

その後も清水のDFリーダーとして活躍するも2009年、ガンバ大阪からオファーを受け完全移籍を果たす。

加入初年度の開幕後は当初出場機会に恵まれなかったが、10月以降左サイドバックとして下平匠、安田理大を抑えて定位置を確保した。

2012年ヴィッセル神戸に移籍するが、出場機会はリーグ戦9試合に留まり神戸はJ2に降格。高木は1年でチームを離れる事になった。

2013年に大分トリニータへ移籍。

ヴィッセル神戸時代からケガに悩まされ、思うように試合に絡めない日々が続き高木は2年連続でJ2降格という憂き目にあった。

2014年は大分に残留し自身初のJ2リーグでの戦いを選択。キャプテンとしてチームをまとめ、リーグ戦42試合のうち40試合に先発出場を果たしたが大分は昇格出来ず、高木は戦力外通告を受け退団する。

2015年はFC岐阜に加入しレギュラーとして稼働するも岐阜は年間順位20位に沈み1シーズンで退団。

その後は2016年にジュビロ磐田に移籍するがリーグ戦出場はなく、2017年からはタイ2部リーグのエアフォース・セントラルへ自身初の海外移籍を果たす。

高木和道がチームを引っ張りリーグ戦全試合に出場。エアフォースのリーグ1への昇格へ貢献した。

しかし2018年、エアフォースと契約延長をした矢先、妻が悪性リンパ腫であることが判明。妻の闘病生活を優先したいと契約解除を申し入れ日本に帰国する。

帰国後、地元滋賀県のJFL所属のMIOびわこ滋賀に加入。ほとんどの試合で先発出場を果たし、チームをJFLではクラブ史上最高位(年間7位)に導くなど尽力。

この年の年末、38歳で18年半の現役生活にピリオドを打った。

高木和道の引退後と現在

高木和道は引退後、2019年よりガンバ大阪の強化・アカデミー部スタッフに就任している。

高木和道は2000年にプロ選手となってから清水エスパルスに始まり、ヴィッセル神戸、ガンバ大阪、大分トリニータ、FC岐阜、ジュビロ磐田、エアフォース・セントラル、MIOびわこ滋賀と8クラブに在籍し18年半のプロ生活を送った。

海外から帰国後に在籍したMIOびわこ滋賀ではただ1人のプロ契約選手として基本的に働きながらサッカーを続ける若い選手と共に汗を流しながらチームの象徴となれるようにプレー以外の面でもチームを支えた。

印象的な言葉がある。

MIOびわこ滋賀に加入する前に、プレーしていたタイでの事だ。妻の癌が発覚し今後のサポートを考えた時に現役を続けるか引退をするか考えた時に高木は、後年のインタビューでこう話している。

「このまま引退してしまったら嫁は自分のせいで引退に追いやったと責任を感じてしまうのではないか。それは僕自身が嫌だなと。」

その後、高木はタイのクラブへ事情を伝え契約を解除し地元のMIOびわこ滋賀に加入する。家族と共に戦いながらサッカーを続ける道を選択したのだ。非常にまっすぐで家族思いの高木和道の人となりがわかるエピソードだと思う。

高木和道は今、指導者として新たな人生を歩みだしている。最愛の家族と共に新たな道を切り開いていく。