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第210回 都並敏史ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

1993年10月28日。日本はあと少しのところでワールドカップ出場を逃す。

悪夢の夜。俗に言うドーハの悲劇が起きた原因の1つにこの男の抜けた穴を埋められなかった事があげられる。

都並敏史。狂気の左サイドバックと呼ばれた男。

華麗なオーバーラップと読売で熟練されたラモス瑠偉や三浦知良という日本の核となる選手との流れるような連携。骨折で戦線を離脱した都並敏史の代役を監督やコーチは探し求めるも遂には見つける事が出来なかった。

それほど左サイドバック・都並敏史の存在感は大きく、当時の日本代表にとっては替えのきかない選手だった。

都並敏史のJリーグ入り前

都並敏史は1961年東京都世田谷区に生まれた。

幼い時は野球少年だったが、10歳の時に担任に教わったのを期にサッカーを始める。

友人からの誘いもあり12歳から読売クラブ下部組織に入る。チームメイトには戸塚哲也がいた。

高校は都立深沢高等学校へ進学。日本代表入りを目標に読売ユースで練習に打ち込む。

高校卒業後はトップチームに昇格。
同時にリベロから左サイドバックへ転向する。
守備中心のポジションながらもタイミングをみてオーバーラップして攻撃参加するなど特徴のあるプレーをみせる。

都並敏史はラモス瑠偉や後輩の三浦知良らと左サイドを構築。読売クラブの黄金期を支えた。

1980年、19歳でW杯スペイン大会アジア・オセアニア予選で日本代表入りを果たす。以降、不動の左サイドバックとして活躍。

1992年にはダイナスティカップやAFCアジアカップ優勝に貢献した。

都並敏史のJリーグ入り後


1993年5月22日に行われたJリーグ第3節のサンフレッチェ広島戦でボールを奪おうとした際ダニエル・カリッチマンに無理な体勢で接触。
左足首を負傷してしまう。その後も強行出場を続けた結果、亀裂骨折を負ってしまう。

同年アメリカW杯アジア最終予選メンバーに選出されたが試合出場は望めない状態だった。

都並敏史の代役は本来ポジションの違う勝矢寿延、江尻篤彦、三浦泰年が急造で務めるものの最後まで穴を埋めるには至らなかった。

アジア予選では都並不在の左サイドを攻められ日本代表は惜しくも敗退、W杯出場権を逃す結果となってしまう。(ドーハの悲劇)

広島戦で負傷したときに治していれば、最終戦を万全の状態で迎えられていればと、この時のことを都並は今でも後悔しているという。

帰国後、手術を受けたがリハビリは約8か月続いた。

1994年8月17日、NICOSシリーズ第3節ジュビロ磐田でスタメン復帰を果たす。

NICOSシリーズ優勝へ貢献したが1996年、長年在籍したヴェルディを離れアビスパ福岡へ移籍。

アビスパでは経験豊富なベテランプレーヤーとして若いチームを牽引し、リーグ戦21試合に出場。
しかし年齢から来る体力の衰えは隠せず翌年の1997年は出場機会を失う。

1997年シーズン途中にベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に移籍。

長年読売で培った自らのプレースタイルに自信を持っていたが、同年5月9日万博で行われたJ1 1stステージ第12節ガンバ大阪との試合で新人の稲本潤一のテクニック、身体の当たり方のタイミングに衝撃を受け、引退を決意。

翌1998年に正式に現役を引退した。

都並敏史の引退後と現在

都並敏史は引退後、サッカー解説者、ヴェルディの下部組織巡回コーチ、ユース監督を歴任。

ベガルタ仙台、セレッソ大阪、横浜FCで監督を務めるもいずれも成績不振により任期途中で解任されている。

その後はテレビ解説者として活躍していたが、2018年からは関東リーグに在籍するブリオベッカ浦安の監督に就任。11年振りに監督業を再開している。

都並敏史は今でもドーハの悲劇の戦犯は自分であると感じているという。

最終予選に間に合わせられなかった事、結果的に左サイドを崩され取り返しのつかない失点に繋がった事がいつまでも都並の脳裏に焼き付いているのだろう。

都並はドーハで1回の練習が終わる度に7箇所も痛み止めの注射を打った。痛み止めが切れると全身から汗が吹き出し言葉を発せられない程の痛みが数時間も都並を襲った。

それでも代表の為に、戦おうと思った。ワールドカップに行く為なら足が壊れても構わない。それほどまでにワールドカップにかける鬼気迫る心情の都並敏史をノンフィクションライターの一志治夫は「狂気の左サイドバック」と称した。

都並敏史が代表を去った後、左サイドバックには様々な選手が試され最終的には相馬直樹が定着した。

相馬直樹はそれまで手薄とされていた左サイドバックの役割を十分に果たし1998年にワールドカップへと出場する。その後、左サイドバックは三都主アレサンドロ、そして長友佑都という世界を舞台に戦う選手へと引き継がれていく。

今後も日本は当然のようにワールドカップに出場していくのかもしれない。

しかしかつて自分の選手生命を投げ打ってでもいいと、ワールドカップ出場に全てをかけた男がいた事は忘れてはならない。