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第194回 中田浩二ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

ボランチからセンターバックまで高いレベルでこなす日本屈指のマルチロール、中田浩二。

優れた洞察力でピンチを未然に防ぎ、的確なカバーリングと抜群の安定感で鹿島アントラーズ黄金期を支えた。

左足から繰り出される正確なパスは後方からのビルドアップの起点にもなり、フリーキックでも高い決定力を見せた。

歴代の代表監督にも高く評価され2大会連続でワールドカップに出場を果たすなど、中田浩二のポリバレントな能力は非常に高いレベルにあった。

中田浩二のプロ入り前

中田は1979年に滋賀県志賀町(現大津市)で生まれた。
 
銀行員である父親の仕事の関係で転校の多い幼少期を送る。小学3年生の時に鳥取県米子市立義方小学校で本格的にサッカーを始める。
 
小学校卒業後、米子市立後藤ヶ丘中学校へ入学。中学2年の時に中国大会へ選抜選手として出場、3年の時には全国中学校大会へ出場する。攻撃的なポジションでプレーし、左足の怪物と呼ばれるなど早くからその才能は注目された。
 
高校は東京の名門である帝京高校へ進学。
 
ここで中田はFWからボランチへ転向。
高校3年の時に全国高校サッカー選手権にキャプテンとして出場。同学年の木島良輔と共にチームを牽引し決勝へと駒を進めた。
 
迎えた決勝戦は本山雅志、金古聖司、古賀誠史、千代反田充を擁する東福岡高校と対戦。
 
大雪に見舞われ銀世界の中で行われた決勝は帝京が先制するも後半に逆転され1対2で惜しくも準優勝となった。
 
激しい降雪と積雪、そして0.8℃という極寒の悪条件で行われたこの決勝は後に「雪の決勝」と呼ばれるようになる。
 
高校卒業後、中田は数あるスカウトの中から鹿島アントラーズへの入団を決意。
 
小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準という後の鹿島アントラーズを支える4人が同時入団する事となった。

中田浩二のプロ入り後


第4節の京都パープルサンガ戦で負傷した熊谷浩二の代わりに急遽ピッチに入ることになり、これが中田のJリーグデビュー戦となった。
 
1年目はリーグ戦5試合の出場に留まったものの2年目には17試合に出場し3年目の2000年からは完全にレギュラーを奪取した。
 
代表としても1999年のワールドユース、2000年のシドニーオリンピックと順調にキャリアを積み2000年2月にフル代表デビューを飾った。
 
2002年FIFAワールドカップでは4試合すべてにフル出場。本職は守備的MFだが、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表ではフラット3の一角として、DF(左サイドバック)でプレーし日本のベスト16進出に貢献した。
 
鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝、ナビスコカップ優勝など数々のタイトル獲得に貢献。
 
フリーキックの精度も高く、左の中田浩二、右の小笠原満男のプレースキックは鹿島の大きな武器となった。
 
2003年の2ndステージ第3節大分トリニータ戦で左膝人体断裂の怪我を負い長期離脱を余儀なくされたが2004年5月に復帰を果たす。
 
2005年にはトルシエが監督を務めるフランス1部リーグのマルセイユへ移籍。
 
ユーティリティ性が高い為、様々なポジションでの起用が期待されたが成績不振によるトルシエの解任もあり出場機会は少なかった。
 
しかしながら日本代表には定期的に招集され2006年のドイツワールドカップのメンバーに選出。3戦目のブラジル戦に途中出場した。
 
2006年のシーズン途中にスイス1部のバーゼルへ移籍。
 
バーゼルではセンターバッグとしてレギュラーに定着し2006年-2007年は19試合フル出場するなど活躍を見せた。
 
2007年スイスカップで優勝しバーゼルでの初タイトルを獲得。翌シーズンはリーグ優勝し二冠を果たした。
 
2008年、古巣である鹿島アントラーズに復帰。
 
ボランチ、左サイドバック、センターバックと3つのポジションでプレーするユーティリティ性をみせる。
 
2011年はセンターバックとして抜群の安定感を見せベテランとしてチームを牽引した。
 
2014年は柴崎岳の台頭により出場機会が減少。8月30日の第22節のFC東京戦で途中出場でボランチを務めるがこれが中田の現役最後のプレーとなった。

中田浩二の引退後と現在

中田浩二は引退後、テレビ朝日「やべっちFC」のレギュラーコメンテーターを務める。

そして2015年から鹿島のクラブスタッフも務めクラブ運営をサポートしている。
 
中田浩二がバーゼルでプレーをしていた時、突如として坊主頭になり驚いた事がある。
 
甘いマスクで知られ、女性ファンも多かった中田浩二がそのような大胆なイメージチェンジを行なうとは思わなかったが後に経緯を聞いて考えさせられるものがあった。
 
バーゼルに入る前にプレーしていたマルセイユで中田は選手間のコミュニケーションの部分で自分から壁を作ってしまい、その影響がプレーに出てしまったという。
 
この反省を生かす為にバーゼルでは積極的にコミュニケーションを取ろうと決意。
 
ある日ホテルでバリカンをもったチームメイトの1人がノリで次々と選手達の頭を刈っていく中、中田はそれを拒否せず笑顔で頭を差し出したという。
 
この事がきっかけで中田はチームに溶け込んでいく。そしてこの事がきっかけでチームメイトと親睦を深め、その後のバーゼルでのレギュラー獲得、タイトル奪取へと繋がった。
 
バーゼルでの成功はマルセイユの苦い経験があったからこそと語る中田浩二。
 
自分の思想が正しいと思い込まず、他者を柔軟に受け入れ適応していくことこそがコミュニケーションを取る上で重要となると彼のこのエピソードから私は学んだ。