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第192回 宮澤ミシェルってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

創世記のジェフ市原を代表するセンターバック。
 
鋭い読みと的確なカバーリングを武器にDFの要として活躍した宮澤ミシェル。
 
元FWである一面もあり、時折見せる果敢なオーバーラップで相手ゴールを脅かした。
 
国籍の壁に泣かされながらも1993年には日本に帰化。
 
念願の日本代表候補に選出された。

宮澤ミシェルのプロ入り前

宮澤は1963年に千葉県千葉市に生まれた。
 
フランス人でアコーディオン奏者の父親と日本人の母親の元で育った。
 
アーティストである父親の影響により幼い頃はピアノに打ち込む日々を送るが、小学校3年生の時にサッカーに出会う。
 
中学校でサッカー部に入りセンターフォワードでプレーする。
 
市原緑高校へ進学し国体への出場を目標にサッカーに取り組むが、フランス国籍だった宮澤に国体出場への権利がなく、日本への帰化申請をするが時間が長引いてしまう。
 
高校の恩師である本田裕一郎監督の働きがけにより高校3年時にようやく外国籍であっても日本で育った選手は国体に出場出来るようにルールが変更。宮澤は1981年にびわ湖国体に出場し国体史上初の外国籍選手となった。
 
高校時代には読売クラブの練習に参加しプロのレベルを肌で痛感する。実業団からオファーがあったが、宮澤はそれを断り国士舘大学へ進学。
 
大学時代にフォワードからセンターバックへコンバートされる。大学リーグではプレーしていたもののユニバーシアード代表やユース代表には国籍の問題で選出されなかった。宮澤はこの間も帰化申請を出し続けているが受理されなかった。
 
大学卒業後は日本サッカーリーグのフジタ工業サッカー部へ入団。アマチュア契約で加入した宮澤は仕事を終えてから練習をする日々を送った。
入団から8ヶ月後、契約はプロ契約に見直される。
 
しかしここで宮澤はまたもや国籍の問題に直面する。日本サッカーリーグは外国人枠が2人だった為、攻撃的なブラジル人選手が優先的に起用された為、宮澤にはほとんど出場機会が訪れなかった。
 
入団から数年後に特別外国人枠が設定され、出場機会を得ると入団5年目からレギュラーに定着した。
 
入団6年目の1991-1992シーズンで2部リーグ優勝を達成。宮澤はその優勝を置き土産にジェフ市原へと移籍した。

宮澤ミシェルのプロ入り後


ジェフに加入した宮澤は1993年第3節横浜マリノス戦でJリーグデビューを果たす。
 
そして苦節14年かかった日本への帰化がこの年認められ、宮澤は日本人枠で出場可能となった。
 
1994年はリトバルスキーやオッツェの活躍もありジェフはリーグ戦6位と健闘。宮澤も守備の要として奮闘し第7節の横浜マリノス戦では勝利に繋がる貴重なJリーグ初ゴールをマークした。
 
そして好調をキープしていた宮澤はファルカン監督により日本代表候補に選出される。しかし清水エスパルス戦で肉離れを起こしていた宮澤は代表を辞退している。
 
既に30歳を超えていて怪我もあった宮澤は翌年の1995年をもって現役を引退。
 
Jリーグ通算58試合に出場し2得点の成績だった。

宮澤ミシェルの引退後と現在

宮澤は引退後、NHKのサッカー解説者として活動。
 
2010年からは浦安市の教育委員を務めている。
 
宮澤は国籍の壁に泣かされた選手である。もし学生時代にユニバーシアードやユース代表に選出され国際経験を積む事が出来ていれば、もし日本サッカーリーグ時代に日本国籍を取得出来ていれば早くに日本代表に選出され違ったサッカー人生が待っていたのではないだろうか。
 
しかし宮澤は不遇の時代もその壁を乗り越えてきた。学生時代には外国籍選手で初めて国体出場を果たし、日本サッカーリーグ時代は特別外国人枠で出場を果たした。
念願だった日本への帰化を果たし代表に声をかけられるまでになった。
 
そして宮澤は現在、サッカーの枠を超えて教育の分野にも活動の場を広げている。
 
学生時代から様々な困難を乗り越え、夢を実現した宮澤ミシェル。
 
彼だからこそ気づける角度、伝えられる言葉がきっとある。