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第167回 吉原宏太ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

DFラインとの駆け引きはJリーグでもトップクラスであり、一瞬にして相手の裏を取れるスピードを武器に活躍したストライカー吉原宏太。

高校選手権得点王を獲得し、鳴り物入りでJFLのコンサドーレ札幌に入団。

その後、Jリーグ昇格、U23日本代表選出、そして日本代表へと階段を駆け上がっていった。
 
優れた得点感覚だけではなく、前線からの積極的な守備も持ち味で、17年間に渡る息の長いプロ生活を送った。
 
万能型ストライカー、吉原宏太に迫る。

吉原宏太のJリーグ入り前

吉原は1978年に大阪府藤井寺市に生まれた。
 
道明寺東小学校2年の時に地元のクラブチームである藤井寺サッカー少年団に入りサッカーを始める。
 
道明寺中学校卒業後、サッカーの名門である和歌山県の初芝橋本高校へ進学。
 
高校1年時からコンスタントに試合に出場し、高校2年の時に2年連続で高校サッカー選手権に出場。
 
3年時には岡山一成と2トップを組んでゴールを量産。
 
準決勝でFW平瀬智行がいる鹿児島実業に敗れはしたものの、吉原は大会通算7ゴールを挙げて得点王を獲得した。
 
甘いルックスもあって、一躍高校サッカー界のアイドルとなった吉原の進路は大きな注目を集めた。
 
通常、有望な選手は大会開幕前に既に次の所属チームが決まっているケースが多い。
 
吉原のように選手権までにどのチームとも契約していないケースは珍しく、吉原本人もこの大会を「就職活動の場」と語っていた程であった。
 
選手権で強烈なインパクトを残した吉原はJFLに所属しながらも積極的な補強でJリーグ昇格を目指していたコンサドーレ札幌に入団。
 
高校サッカー界のスター選手入団に札幌は大きな盛り上がりを見せた。
 
吉原は入団して間もなく1996年4月21日のJFL第1節福島FC戦に先発出場する。
 
アルシンドと2トップを組んだ吉原は先制ゴールを含む2得点を挙げてチームの開幕戦勝利に貢献した。
 
その後も裏へのスピードと絶妙なトラップを武器に出場を重ね、リーグ戦24試合に出場し6得点を挙げた。
 
この年に吉原はコンサドーレのメインスポンサーである石屋製菓の主力商品「白い恋人」のテレビCMにも抜擢されるなど、人気を博した。
 
翌シーズンも15試合で8ゴールと結果を残してクラブのJリーグ昇格に貢献した。

吉原宏太のJリーグ入り後


1998年3月21日清水エスパルス戦にてJデビューを果たす。

4月21日ベルマーレ平塚(現湘南)戦で初ゴールを挙げ、吉原自身はシーズン2桁ゴールと結果を出すもコンサドーレはJ2に降格した。

J2でのスタートとなった1999年だったが、5月2日のヴァンフォーレ甲府戦でJリーグ初のハットトリックを達成するなど順調に得点を重ねていく。
 
そんな中、U22日本代表監督のフィリップ・トルシエより招集を受けアジア予選に出場。
 
オリンピックアジア一次予選の香港ラウンドでのフィリピン戦で、交代出場ながらもハットトリックを達成した吉原は、続くネパール戦でも2得点、3戦目のマレーシア戦で1得点、最終戦の香港戦でも1得点を決め、4試合で7得点を決める活躍を見せた。
 
この大活躍により同年、コパ・アメリカに出場する日本代表へと抜擢。
 
元々出場する予定だった中山雅史が怪我で離脱。
 
オリンピック予選で好調を維持していた吉原宏太に白羽の矢が立ったのだ。
 
突然の代表選出により、吉原は急遽35時間というフライトを経てパラグアイへ向かう。
 
コパ・アメリカではパラグアイ戦に途中出場を果たす。
 
しかし合流から日の浅い状態で連携もままならず、吉原は無得点に終わる。
 
これが吉原の唯一の日本代表戦となった。
 
吉原にとって飛躍の年となった1999年だったがリーグ戦でもシーズン通して15得点をマークしながらもコンサドーレはJ1昇格は叶わず、J1でのプレーを希望した吉原はオファーのあったガンバ大阪へと移籍する。
 
ガンバ大阪加入1年目はリーグ戦3得点に終わるも、2年目からはマグロンとのコンビで2年連続二桁得点を記録するなどコンスタントな活躍をみせる。
 
しかしその後は大黒将志、フェルナンジーニョ、アラウージョの活躍により出場機会が減少。
 
2006年に出場機会を求めて大宮アルディージャへ移籍。
 
大宮では背番号9を託され、得点源として期待されるも起用法が定まらない事もあり目立った活躍は出来なかった。
 
加入2年目の2007年にチーム得点王となる5得点を挙げるも2008年を持って大宮を退団。
 
2009年にJ2の水戸ホーリーホックへ移籍。
 
加入1年目のシーズンは高崎寛之との2トップで復調しリーグ戦9得点を挙げる。
 
水戸ホーリーホック発足以来初の日本代表経験者となった吉原は既にベテランの域に達していたが精神面でもチームを支えた。
 
加入2年目の2010年にアキレス腱を断裂。翌年に復帰するも今度は肋骨骨折と肺挫傷の怪我を負い再び戦線を離脱した。
 
その後、出場機会は限られたもののこの年に加入した鈴木隆行との2トップで見せる絶妙な動き出しは健在で、流れを変える貴重なベテランとして存在感を発揮した。
 
2012年、自身の17年間に及ぶプロ生活の中で最低となるリーグ戦1得点に終わると2013年2月2日に現役引退を表明した。

吉原宏太の引退後と現在

吉原は引退後、古巣のコンサドーレ札幌のスクールコーチに就任。
 
また、コンサドーレ札幌公式情報番組「WEEKLY CONSADOLE」(スカパー!)のMCを担当するなど札幌を中心に活動している。
 
セカンドキャリアの本拠地をプロサッカー選手としてデビューの地である札幌を選んだ吉原宏太。
 
吉原でコンサドーレ札幌で様々な経験をした。
 
JFLからJリーグへの昇格や入替え戦の出場、オリンピック出場を目指すU22代表への選出と活躍、そして日本代表への抜擢。
 
吉原にとって激動の4年間を過ごした札幌の地には特別な思いがあるのだと思う。
 
支えてくれたサポーターへの感謝の気持ちを忘れずに、吉原宏太は着実にセカンドキャリアを築いている。