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DF

第166回 鈴木秀人ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

フィジカルの強さと足の速さを生かした粘り強い守備が持ち味のDF鈴木秀人。

高い身体能力を生かしたマンマークには定評があり、空中戦にも絶大な強さを誇った。

マイアミの奇跡と呼ばれた1993年のアトランタオリンピック、ブラジル戦ではエースFWベベットのマンマークを担当し見事に封じ込めた。

鈴木秀人はジュビロ磐田一筋でプレーし、幾多のタイトル獲得に貢献するなど磐田黄金期を代表する選手となった。

鈴木秀人のプロ入り前

鈴木は1974年に静岡県浜松市に生まれた。

小学2年の時に河輪少年団でサッカーを始めた。

東陽中学校時代は市内大会でベスト8入りを果たすなど活躍し、浜松市選抜チームに選出されるなど活躍した。浜松市選抜では後にアトランタオリンピックで共に戦う松原良香と同じチームでプレーした、

その後一般受験で浜松商業高校へ進学。

浜松商業は野球部が強く、野球部が優先的にグラウンドを使っていたため、サッカー部は付近の公園で練習するような環境だった。

高校時代は中盤の選手としてプレーしていたが、全国大会に出場した経験はなく無名の存在だった。

それでもプロ選手への夢を抱いていた鈴木は、教師のつてを頼りに高校3年の時ヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)の入団テストを受ける。

練習生となった鈴木はフィジカルの強さと足の速さを評価されてテストに合格。
 
1993年、高校を卒業した鈴木秀人はジュビロ磐田へ加入する。

鈴木秀人のプロ入り後

その後、1995年6月24日ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦でJデビューを果たす。

ジュビロ磐田には元日本代表の勝矢寿延や遠藤昌浩がいたが、身体能力で上回る鈴木はジュビロ磐田のオフト監督に高く評価され、レギュラーに定着する。
 
翌年の1996年アトランタオリンピックにも同僚の田中誠、服部年宏らと共に出場。
 
田中誠、松田直樹と3バックを形成し3試合に出場した。
 
特に初戦のブラジル戦ではエースFWベベットのマンマークを担当。執拗なマークでベベットに仕事をさせず日本の勝利に貢献した。
 
翌年にはフランスワールドカップを目指す日本代表に招集。
 
1997年6月28日のオマーン戦で代表デビューを飾った。
 
鈴木はその後もジュビロ磐田で主力としてプレーするが代表とは無縁であり、2002年に一度招集されているが出場機会はなく、このオマーン戦が最初で最後の代表戦となった。
 
1997年2ndステージの優勝を皮切りに、ジュビロ磐田のその後の躍進を支えた。
 

特に2001年から2002年にかけて大岩剛、田中誠、鈴木秀人で構成された3バックは、鉄壁と言われ非常に失点が少なかった。

アジリティの非常に高い鈴木は相手エースのマークにつく事が多く、負けん気の強さと徹底的にボールに食らいつく姿勢が高く評価されJリーグ屈指のDFとなった。

2002年には初となるJリーグベストイレブンを受賞。

その後も主力として試合出場を続けるも、2005年に韓国代表DFキム・ジンキュの加入や自身の怪我もありリーグ戦12試合の出場に留まる。
 
2007年にはキャプテンに就任し、出場試合は少ないながらも世代交代期に入った磐田を支えるベテランの1人としてプレーした。
 
その後、2008年はリーグ戦8試合、2009年は6試合の出場に留まり、このシーズンを持ってジュビロ磐田を退団。
 
2010年1月に正式に現役引退を表明した。

鈴木秀人の引退後と現在

鈴木は引退後、ジュビロ磐田の指導者として2010年はU-15のコーチ、2011年はU-18コーチ、2012年はU-18の監督を歴任。
 
2014年からはトップチームのコーチを務め、2015年にはヘッドコーチに昇格している。2019年シーズン途中からは成績不振の名波監督に代わり監督に就任したが、立て直すことは出来ず一ケ月余りで退任となってしまった。
 
ジュビロ磐田で17年間プレーたジュビロのレジェンドである鈴木秀人。
 
指導者を通して1つのクラブでずっと仕事をするという事は流動性の高いJリーグにおいて稀である。
 
ひとつのクラブで長年プレーし続けるという事は、年々変化するチーム戦術への対応や、選手とのコミュニケーション、クラブからの信頼獲得など乗り越える壁は多い。
 
生え抜きである鈴木秀人がジュビロ磐田の監督を務めた事はジュビロ磐田関係者にとってもサポーターにとっても非常に喜ばしい事であるだろう。それだけにこのような形で辞任となってしまったことは残念であったと言わざるを得ない。
 
鈴木秀人がまた違う形でジュビロの指導者として戻ってくる日をサポーターは願っているだろう。