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第159回 プロタソフってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

旧ソ連出身の大型ストライカーとして、ガンバ大阪で活躍したプロタソフ。

身長186センチと長身だが、俊敏な動きで一瞬にして相手を振り切りシュートモーションまで持っていく動きは一級品。
 
ポストプレーにも長けており、プロタソフを経由して多くのゴールが生まれた。
 
かつては西のファンバステン、東のプロタソフとまで言われた程、東ヨーロッパでは屈指のストライカー、プロタソフ。
 
ガンバ大阪では55試合に出場し24ゴールを挙げるが、チーム成績は向上せず絶大なインパクトを与えるまでにはいかなかった。

プロタソフのJリーグ入り前

プロタソフは1964年に旧ソビエト連邦のドニプロに生まれた。
 
地元チームであるドニプロ・ドニプロペトロフシクのユースでサッカーを学び、18歳でトップデビューを果たす。
 

デビュー翌シーズンの、83シーズンには7ゴールを挙げ、チームのリーグ優勝に貢献する。

その後、ドニプロのエースストライカーとして1985シーズンには、35ゴールを挙げ得点王に輝く。
 
1987シーズンにもリーグ得点王に輝くと、同じウクライナの強豪であるディナモ・キエフに移籍。
ディナモ・キエフでは、ユーラン、カンチェルスキス、ザヴァロフ、ベラノフ、サレンコという名手と共にプレーを経験し、ここでもストライカーとして得点を量産した。
 
ソ連代表としては1986年のワールドカップ、1988年のUEFA欧州選手権、1990年のワールドカップの主力メンバーとして活躍。
 
特に1988年の欧州選手権では自身の2ゴールで決勝まで進む活躍を見せる。決勝でファンバステン率いるオランダに敗れるが、プロタソフはファンバステンに次ぐ得点ランキング2位に入る活躍を見せた。
 
プロタソフは1990-1991シーズンにギリシャのオリンピアコスへ移籍。
 
オリンピアコスに移籍してからもエースストライカーとして活躍するも、チームは当時、パナシナイコスやAEKアテネらと比べ戦力的に劣っており、それまでのようにタイトルを獲得することはできなかった。
 
1993-1994年シーズン途中、Jリーグのガンバ大阪からオファーを受け移籍する。

プロタソフのJリーグ入り後


ガンバ大阪には1993年からプレーしているMFアレイニコフ、同時期に入団したDFツベイバという旧ソ連代表メンバーと共にプレー。
 
プロタソフは1994年3月16日サントリーシリーズ第2節サンフレッチェ広島戦でJリーグデビューを飾る。
 
続く第3節名古屋グランパスエイト戦ではJリーグ初ゴールを記録し、2-0での勝利に貢献した。
 
アレイニコフとの連携は勿論、このシーズンに飛躍的成長を遂げたストライカー山口敏弘との2トップは迫力があった。
 
ガンバ大阪は勝利試合こそ大量得点が目立ったが、歯車が噛み合わないと立て続けに連敗してしまいシーズンを通して下位に沈んだ。
 
プロタソフはJリーグ1年目のシーズンは27試合に出場し11得点を記録。
 
1995年もエースストライカーとして期待され1stステージ第20節の清水エスパルス戦ではハットトリックを記録。
 
しかしチーム成績は上向かず、元オランダ代表ヒルハウスの加入もありシーズン後半からは出場の機会が減少した。
 
加入2年目のシーズンはリーグ戦52試合中28試合に出場し13得点という記録だった。
 
このシーズン限りでプロタソフはガンバ大阪を退団。
 
その後1996年からギリシャリーグのヴェリア、プローデフティキでプレーし1998-1999シーズンを最後に現役を引退した。

プロタソフの引退後と現在

プロタソフは引退後、監督業をスタート。
 
2002年に古巣であるオリンピアコスで指揮官に就任すると、その後はキプロスリーグのリマソール、ルーマニアリーグのブカレスト、ウクライナリーグのドニプロ、ロシアプレミアリーグのFCクバンなど各国を渡り歩いている。
 
1980年代から1990年代の東ヨーロッパを代表するストライカーであったプロタソフ。
 
残念ながらプロタソフはそれまでの欧州での経歴に見合った輝かしい成績をJリーグで残したとまでは言い難い。
 
しかしヨーロッパ1部リーグで結果を残し続けた得点感覚は本物で、チームの歯車が噛み合った試合ではその鋭さの片鱗を見せてくれた。