まるでその瞬間だけ、時が止まったかのようだった。
1997年のフランスW杯アジア最終予選第3戦の宿敵韓国戦。
韓国DFをかわした山口素弘の右足から放たれたループシュートは鮮やかな曲線を描いて緩やかに宙を舞った。
吸い込まれるようにゴールネットを揺らすと、止まっていた時が静かに動き出し、時間差で怒涛の如く割れんばかりの大歓声が国立競技場に鳴り響いた。
日本代表史上最高に美しいゴールは山口素弘の右足によって生まれた。
山口素弘のプロ入り前
山口は1969年に群馬県高崎市に生まれた。
高崎市立乗附小学校4年の時に兄の影響でサッカーを始め、地元の高崎西スポーツ少年団に所属する。
強豪の片岡中学校に進み群馬県大会優勝等を経験し、前橋育英高校へ進学した。
高校時代は攻撃的なポジションでプレーし、3年時に全国高校サッカー選手権に出場した。
大会では選手宣誓の大役を担うも1回戦で九州学院に敗れている。
山口は高校卒業後、東海大学へ進学。
同期には岡中勇人(元ガンバ大阪、大分トリニータなど)がいた。
山口の1学年下には澤登正朗、礒貝洋光、加藤望、飯島寿久、後藤太郎などがおり1988年から3年連続で全日本大学サッカー選手権大会決勝に駒を進め、2年時、4年時には優勝を飾った。
この頃山口はポジションを広い視野と高い精度のパスを生かす為に守備的MFに変更している。
このコンバートが後の山口素弘のスタイルを確立させるきっかけとなった。
大学卒業後、山口は全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)へ入団。
加茂周監督の元でゾーンプレスを学び、入団2年目から出場の機会を得る。
1992年、全日空はJリーグ入りの為に横浜フリューゲルスへ改称、山口素弘はフリューゲルスとプロ契約を結んだ。
山口素弘のプロ入り後
1993年5月16日、開幕戦の清水エスパルス戦でJリーグデビューを果たす。
山口はゾーンプレスの中心人物として不可欠なプレーヤーであり、フリューゲルスのビルドアップを任されていた。
FW前田治、エドゥー、MF前園真聖など攻撃的な選手が前線で活躍出来たのは山口素弘のサポートによるものが大きい。
フリューゲルスは1994年、元日の天皇杯でヴェルディ川崎相手に大勝し初タイトルを獲得。
1995年、フリューゲルスはブラジル代表のエバイール、ジーニョ、サンパイオというブラジル人トリオを獲得。
連携が深まった翌シーズンからは優勝争いを繰り広げた。
山口は後年のインタビューでフリューゲルスのメンバーは非常に仲が良く、午前の連携が終わってもバーベキューで昼食を共にし、夜まで一緒にいた事も珍しくなかったと語っている。
1995年には日本代表監督に就任した加茂周により、日本代表へ初抜擢される。
以降はフランスワールドカップ出場を目指す日本代表の中心人物として代表に定着。名波浩や中田英寿をサポートするボランチとして活躍した。
1996年からは2年連続でJリーグベストイレブンに選出される。
1997年のフランスW杯アジア最終予選第3戦の韓国戦では芸術的なループシュートを決め、大きな注目を集めた。
山口素弘は後年、このループシュートについて「高校時代、毎日のようにトライしていたプレー。だからあのワールドカップ予選の大切な試合で自然と選択する事が出来たのだと思う」と語っている。
この山口のシュートは20年以上経った今も度々メディアで取り上げられ、日本代表史上最高に美しいゴールであると賞賛する者も多い。
1998年、フランスワールドカップ日本代表として予選全試合にフル出場を果たす。残念ながら日本は3戦全敗となったが、山口は攻守の要として奮闘した。
しかし1998年10月、Jリーグに衝撃が走る。山口が所属していたフリューゲルスとマリノスが合併を発表し、事実上、フリューゲルスの消滅が明らかとなったのだ。
フリューゲルスサポーターは直ちに存続活動として署名運動を開始。山口らフリューゲルスのメンバーも加わり、消滅させまいと奮闘するも決定事項は揺らぐ事はなかった。
山口素弘の引退後と現在
2018年には、名古屋グランパスの育成部門のトップである「アカデミーダイレクター」に就任。古巣である名古屋へコーチとして復帰している。