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第146回 下村東美ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

強靭なフィジカルコンタクトと高度なテクニックを生かした大型ボランチ、下村東美。

広い視野と優れた戦術眼でミドルレンジからゲームをコントロールする展開力も下村東美の魅力だ。
 
下村東美はセレッソ大阪でプロキャリアをスタートさせ、その後はジェフ千葉、モンテディオ山形、湘南ベルマーレ、ギラヴァンツ北九州とチームを渡り歩いた。
 
どのチームにおいても下村はチームの要となり、強いメンタルとリーダーシップを評価されキャプテンを務めた。

下村東美のプロ入り前

下村は1980年に北海道札幌市に生まれた。
 
父親はオーストリア人で元セミプロのサッカー選手であった事もあり、幼い頃から自然とボールを蹴り始める。
 
札幌市立澄川西小学校3年生の時にSSS札幌サッカースクールに所属し本格的にサッカーを学ぶ。
 
オーストリア人の父と日本人の母を持つ下村は小学校時代、髪の毛が金髪でありその容姿から対戦相手のチームからからかわれ、サッカーを辞めようと思った時期もあった。
 
しかし両親やチームメイトの支えもあり、辞めずにサッカーを続けられたと後年語っている。
 
澄川中学校進学後、札幌第一ジュニアユースに所属しセンターバックやボランチとしてプレー。
 
高校3年時には北海道国体選抜に選出された。
 
高校卒業後、大阪体育大学へ進学。
 
大学1年時からレギュラーとして活躍し2年時には全日本大学選抜に選出されるなど活躍した。
 
大学卒業後、下村は練習試合でのプレーによりスカウトを受けていたセレッソ大阪へ入団する。
 
また下村は母親の勧めもあって22歳の時に日本国籍を取得している。

下村東美のプロ入り後


入団1年目は出場機会がなかったものの、2年目の2004年4月10日ジュビロ磐田戦でJリーグデビューを果たす。
 
森島寛晃、西澤明訓、古橋達弥を擁する強力な攻撃陣を支えるボランチ、センターバックとして欠かせない選手となっていく。
 
ホームで行われた6月13日の東京ヴェルディ戦ではJリーグ初ゴールをマークするなど活躍し、このシーズンはリーグ戦24試合に出場した。
 
 2005年はセレッソが最終節まで優勝争いに食い込む活躍を見せ、下村はボランチとしてチームを支えた。
 
2006年は前年の躍進とは逆に勝ちきれない試合が続き、セレッソ大阪はJ2に降格。下村は2007年1月にジェフユナイテッド市原・千葉へ完全移籍を果たした。
 
ジェフでは背番号6をつけ、ボランチとしてプレー。
 
2008年、2009年はキャプテンを務めるなどチームの中心選手として活躍した。
 
しかし2008年はフクアリの奇跡とも呼ばれた最終節のFC東京戦での大逆転勝利によりなんとかJ1に残留するも、翌年の2009年にはJ2降格を味わうなど下村にとって苦しいシーズンとなった。
 
2010年にJ1のモンテディオ山形へ移籍。
 
モンテディオ山形では持ち前のフィジカルの強さを生かし、攻撃の芽を摘むダブルボランチの一角として活躍した。
 
しかし加入2年目の2011年、山形はリーグ戦で僅か5勝に留まるなど苦戦を強いられ、J2に降格。
 
2012年より、山形のチームメイトである古橋達弥と共にJ2の湘南ベルマーレへ完全移籍を果たした。
 
出場機会は多くなかったものの、湘南が逃げ切りたい試合では途中から出場を果たしバイタルエリアを封じるなど守備の要として貴重な戦力となった。
 
2012年、湘南はJ1に昇格。下村は2年ぶりにJ1の舞台に戻るが、出場機会は多くなくこの年限りで湘南を離れる。
 
2013年はギラヴァンツ北九州へ移籍。
 
既にベテランの域に達していた下村は出場機会は多くなく、リーグ戦12試合の出場に留まり、1年のみのプレーで現役を退く。
 
下村東美、34歳での引退だった。

下村東美の引退後と現在

下村東美は引退後、東京都1部の東京ユナイテッドFCで数ヶ月プレー。
 
その後、マネジメント会社での勤務を経て2019年に古巣である湘南ベルマーレのトップチームコーチに就任した。
 
下村は現役時代から積極的に外国人選手とコミュニケーションを取り、英会話スクールに通うなど語学に力を入れていたことでも知られる。
 
監督から試合中の外国人選手への通訳を頼まれるなど、下村の仕事はプレーだけでなかった。
コーチとなった今も、下村の語学に期待される部分は大きいと感じる。
 
現在、Jリーグにはアジア圏内から南米、ヨーロッパなど様々な国の外国人選手が存在しておりサッカーと語学の関係性は密接にある。
 
プレーが一流でもコミュニケーション能力が欠けていれば活躍することはおろかプロ選手として存在する事すら不可能だ。
 
そういう意味においても、現役時代から多くのチームを渡り歩き、様々な外国人選手や外国人監督と共にプレーし早くから語学の重要性に着目していた下村へ指導者としてかかる期待は大きい。