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第123回 チェルニーってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

チェコスロバキアからJリーグ誕生とともに日本にやってきたパベル・チェルニー。

大柄な体格からは想像もつかない柔らかいプレーでゴールを量産。

ジーコやリネカー、リトバルスキーなど世界的にも有名な外国人が注目を集める中で知名度は高くなかったが、サンフレッチェ広島が展開して組織的パスサッカーの起点となり、自らのゴールだけでなく力強いドリブルや正確なパスで攻撃陣を支えた。

 
チェルニーがジュビロ磐田戦でサンフレッチェ広島の1994年1stステージ優勝を決定づけるゴールを決めた事もサポーターにとっては忘れられない出来事だろう。
 
ノジュンユン、イワン・ハシェック、パベル・チェルニーと1994年サンフレッチェ広島の助っ人外国人は全員が期待以上の働きをしてくれた。


チェルニーのJリーグ入り前

チェルニーは1962年にチェコスロバキアのフラデツ・クラーロヴェー州に生まれた。
 
父親のイルジー・チェルニーも地元のスパルタク・フラデツ・クラーロヴェーのサッカー選手であり、チェルニーも17歳の時に同クラブでプロのキャリアをスタートさせた。
 
1981年から1983年まで他チームで経験を積んだ後、フラデツへ戻り1990年までフラデツの中心人物としてプレー。
 
1989年9月5日にチェコスロバキア代表としてデビューし、その後4試合に出場している。
 
1990年にはチェコリーグの強豪であるACスパルタ・プラハへ移籍すると約2年半の在籍中にチェコスロバキア・リーグ2度、カップ戦1度の優勝に貢献し、UEFAチャンピオンズカップ1991-92本大会にも出場を果たした。
 
後年、チェルニーはサポーターが選出する歴代ACスパルタ・プラハベストイレブンに選出されるなどここでの活躍は印象強いものだった。
 
1991年、チェコ代表でともにプラハでプレーをしていたユーリウス・ビエリクが日本のマツダSC(現サンフレッチェ広島)へ移籍すると、チェルニーはビエリクに誘われる形で1992年にサンフレッチェ広島へ加入した。

チェルニーのJリーグ入り後

1992年、イギリス人のバクスターがサンフレッチェ広島の監督に就任すると、チェルニーはFWか攻撃的MFとして起用された。
 
サンフレッチェ広島は選手層が薄く、引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほどで1992年のヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。
 
1993年、Jリーグが開幕するとチェルニーは高木琢也や森保一、風間八宏、盧廷潤らとバクスターの戦術である組織的なパスサッカーを展開していく。
 

チェルニー自身もリーグ戦33試合に出場し10得点を挙げた。

1994年には1987年・1988年と2年連続でチェコスロバキア最優秀選手賞(MVP)に輝いたイワン・ハシェックが広島に加入。

チェルニーはハシェックと息の合ったプレーを見せ、1stステージ優勝に貢献した。
 
特に1994年6月11日のジュビロ磐田戦では無人のゴールに流し込みサントリーシリーズ優勝を決めるなど印象強いゴールを決めた。
 
この年の広島の外国人はドリブル突破と豊富なスタミナが魅力の盧廷潤、セントラルミッドフィルダーとして高い攻撃力を誇るイワン・ハシェック、そして一発のあるパベル・チェルニーが大活躍した。
 
しかし同年末に行われたヴェルディ川崎とのチャンピオンシップには、ヴェルディの高い攻撃力を封じるためにDFトーレが第1戦で起用された為、外国人枠の都合でチェルニーはベンチを外れた。
 
第2戦では起用されたものの、2戦ともヴェルディに敗れ年間チャンピオンの座につくことは出来なかった。
 
チェルニーはこの年、前年を上回る15得点を挙げるもバクスター監督はこの年限りで退任し、チェルニーも惜しまれながら広島を去ることになった。
 
Jリーグでは2シーズンを過ごし、リーグ戦67試合に出場し25得点を記録した。
 
1995年からはチェコに帰国し、古巣であるフラデツへ復帰してチェコカップ優勝に貢献。
 
その後、フラデツは2部リーグに降格するも、チェルニーは同クラブで現役を続け、2000年には38歳で29試合17ゴールを挙げた。
 
これはチェコ2部リーグ最年長得点王記録となって各国のスポーツ紙にも取り上げられた。
 
その後2002年、40歳までプレーし現役を引退した。

チェルニーの引退後と現在

チェルニーは引退後、母国でサッカー指導者としてキャリアを積んでいる。
 
息子のパベル・チェルニー・ジュニアもフラデツでプロサッカー選手となり、チェルニーはこれで3代続くプロサッカー選手の家系となった。
 
チェルニーはフラデツで15シーズンに渡ってプレーし、晩年には得点王を獲得するなど今でも同クラブの英雄として親しまれている。