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第111回 風間八宏ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

サンフレッチェ広島の初代キャプテンとして、1994年1stステージ優勝に貢献した風間八宏。

当たり負けしない体とパスセンスを武器に持ち前のキャプテンシーでサンフレッチェの中盤を牽引した。
 
風間八宏は高校時代からその才能に注目され、大学から日本代表に入り、卒業後はドイツで5年間に渡るプロ生活を送る。
 
Jリーグ開幕後も日本人選手Jリーグ初ゴールやフリーキック日本人初ゴールなどメモリアルゴールを決めた。
 
まだ出来たばかりのJリーグにおいて長らく海外でプロ選手として経験を積んだ風間八宏の存在は大きく、風間のプロ意識に影響を受けた選手も多い。


風間八宏のプロ入り前

風間は1961年に静岡県静岡市に生まれた。
 
母子家庭で3人兄弟の長男で育った風間は決して裕福な家庭環境ではなかった。
 
江尻小学校在学の時にサッカーを始め、清水FCへ所属。
 
清水第一中学校へ進学後はセンターバックとしてプレーをした。
 
同学年には大木武(後の日本代表コーチ、ヴァンフォーレ甲府や京都サンガ監督を歴任)がおり、風間について「僕は八宏のすぐ前でプレーしていたから、そのすごさがよく分かった。練習で1対1をやっても、アイツだけは抜ける気がしなかった。次元が違った。」と語っている。
 
中学校卒業後は清水市立商業高校 (後の静岡市立清水商業高等学校) へ進学。
 
ここでも早くから頭角を現し、監督から「教えることは何もない」とまで言わしめた。
 
風間は3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選出され、高校在学中に日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権の日本代表に選出され、仙台向山高の鈴木淳、帝京高の名取篤とともに高校生トリオとして名前を馳せる。
 
風間は同世代に類を見ない突出したタレントとして、マラドーナがMVPに輝いた1979年のワールドユース日本大会に出場しており、高校卒業時には実業団、大学を問わず、ほとんどの主要チームが勧誘に来るようになっていた。
 
風間が学校から帰宅すると、母親が営んでいる磯料理の店のカウンターにはずらりとスカウトが並んで、飲みながら待っていたという。
 
その中で清水東高校の監督からの勧めもあり、筑波大学へ進学。
 
大学進学後も「中盤でアシストの前を組み立てることのできる天才」と称賛される技術の高さはカレッジサッカーの枠を超えており、大学1年で日本代表に選出される。
 
香港で行われた1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選(1次予選)にレギュラーとして出場した。
 
日本代表としては1989年まで選出され、国際Aマッチ21試合に出場している。
 
大学卒業後は海外でのプレーを希望し、日本サッカーリーグには所属せず、茨城県リーグのジョイフル本田に所属。
 
そして1984年5月に風間八宏は単身西ドイツへ渡り、バイエル・レバークーゼンIIとアマチュア契約にて入団。
 
その後、風間はオーバーリーグという3部リーグ所属の“BVL・08・レムシャイト”というチームに移る。
 
ここで風間は活躍し、チームの勝利に大きく貢献。
 
チームは2部昇格を果たし、風間は西ドイツで史上3人目の日本人プロ選手となった。
 
後に風間はブラウンシュバイクFCに移籍するなど、5年間にわたり西ドイツのプロリーグを転々とし、1989年に帰国。
 
10代から日の丸を背負い、海外で活躍した風間の元には1部リーグからのオファーも殺到したが、風間が選んだのは当時日本サッカーリーグ2部に所属していたマツダSC(現サンフレッチェ広島)だった。
 
当時マツダSCの総監督であった今西和男は風間が西ドイツへ渡った後も風間八宏を追い、最もプロフェッショナルなオファーを出したのか今西だった。
 
サラリーでも環境でも観客数においても他のチームの方が上だったが、一番熱心に誘い、チームビジョンや風間の明確な役回りを伝えてきたマツダを風間は選択した。

風間八宏の日本帰国後

1989年から日本サッカーリーグ2部でプレーすることになった風間は、ドイツとのギャップに驚きを隠せなかったという。
 
それでも風間はチームを牽引し、1年目には3位に引き上げ、2年目には2位になり自身もベストイレブンに選出され、マツダの1部復帰を果たす。
 
そして1992年、マツダSCはサンフレッチェ広島へ改称、翌年にJリーグが開幕すると風間はキャプテンとしてプレー。
 
開幕戦となった1993年5月16日のジェフユナイテッド市原戦では開始1分に右足でボレーシュートを決める。
 
これはJリーグ日本人初ゴールとなった。
 
同年、NICOSシリーズの第1節においても、リーグ戦で日本人初めての直接FKによるゴールを決めている。
 
風間は既に32歳となっていたが、サンフレッチェ広島の精神的支柱として君臨し、風間を起点としたパスサッカーで勝ち星を挙げ続けた。
 
1994年1stステージには初優勝を成し遂げる。
 
1995年にはリーグ戦25試合に出場するもこの年限りで退団。
 
再度、ドイツへ渡りレムシャイトと契約するが1年で退団し引退を表明した。

風間八宏の引退後と現在

風間は引退後、テレビやラジオで解説を行う傍ら、1997年から2004年まで桐蔭横浜大学サッカー部の監督を務めた。
 
その後は日本サッカー協会の理事や母校である筑波大学サッカー部の監督を歴任。
 
Jリーグでも川崎フロンターレで監督を務め、現在は名古屋グランパスの監督を務めている。
 
風間八宏をはじめとして、森保一や片野坂知宏、高木琢也などサンフレッチェ広島出身の名将は多い。
 
風間八宏の著書【「1対21」のサッカー原論】は考えさせられる内容だった。
 
サッカーは「11対11」ではなく「21対1」。
 
なぜか。それは仲間の10人とともに自分はどう動きべきか。そして敵の11人に対していかに攻撃を仕掛けるのか。常に考えてプレーし初めて「11対11」になれるのだ。
 
トラップしてからパスコースを探すのではなく、受ける前に常にイメージしておく。
 
何の目的も意思もなくパスを出しても受けてもならない。
 
現代サッカーは常に流動的にボールが動く。
 
立ち止まって考えている暇などないのだ。
 
風間八宏が指揮を執るチームのサッカーは見ていてイマジネーションに溢れていてサッカー本来の楽しさがあるように思う。