選手一覧はこちらをクリック
DF

第103回 今藤幸治ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

卓越した技術と俊足を生かしたオーバーラップでガンバ大阪の不動の右サイドバックとして活躍した今藤幸治。

高校時代は無名でU世代の代表経験はないが、1994年にはファルカン監督から日本代表に抜擢された。
 
細身の体ながら、屈強な外国人選手に当たり負けしない身体のバランスの良さも今藤幸治の魅力だ。
 
ガンバ大阪では右サイドバックで起用されることが多かったが、背番号固定制になる前年の1996年にはJリーグでただ一人、当時GKしか付けることのできなかった1を除き、スタメンのフィールドプレーヤーが付けることが可能であった全ての背番号2〜11を付けたことがあるなどユーティリティな面も併せ持つ。
 
ガンバ大阪の選手として初めて日本代表戦に出場した今藤幸治の未来は明るく輝かしいものになるはずだった。

今藤幸治のプロ入り前

今藤は1972年に愛知県刈谷市に生まれた。
 
小垣江小学校入学後、3年生からサッカーを始めると少年サッカーチーム刈谷81FCに所属する。
 
刈谷市立依佐美中学校を卒業後、サッカーの名門である静岡学園高校へ進学。
 
一つ下の学年には後の日本代表である増田忠俊が在籍していた。
 
高校時代は東海大第一や静岡東、清水商業などサッカーの強豪高校が揃う静岡県大会を勝ち抜く事が出来ずに全国大会の経験はなかった。
 
高校卒業後の1991年、日本サッカーリーグ1部に所属する松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)に入部。
 
2年目から出場の機会を得た今藤はJSLカップに出場。
 
本並健治や永島昭浩、久高友雄ら松下の中心メンバーとともにチームを支えた。
 
その後、松下電器サッカー部はJリーグ入りの為にガンバ大阪に改称。
 
今藤は引き続きガンバ大阪でのプレーを選択した。

今藤幸治のプロ入り後


1993年5月16日に行われたガンバ大阪のJリーグ初陣である浦和レッズ戦に今藤幸治は背番号6をつけ先発出場を果たし1-0の勝利に貢献。
 
近藤はその後も主に右サイドバックとして起用され、賈秀全、和田昌裕、フラビオらとガンバのDFを形成した。
 
この年はリーグ戦28試合に出場するも、ガンバ大阪は1st・2ndステージとも8勝10敗の成績で、順位はそれぞれ10チーム中8位と6位。Jリーグ開幕初年は年間成績7位に沈んだ。
 
続く1994年もガンバ大阪の主力としと活躍。
 
この年はユーティリティ性を買われ、右サイドバックとしとだけでなく守備的MFやサイドハーフとしてもプレー。
 
5月にはファルカン監督により日本代表に初抜擢される。
 
U世代代表経験がなく、低迷していたガンバ大阪からの選出ということもあり今藤の選出は注目を集めた。
 
今藤は5月22日に広島ビッグアーチで行われたキリンカップ1994のオーストラリア戦にて初出場を果たす。
 
井原正巳、名塚善寛、岩本輝雄と4バックを形成し、フル出場を果たし1-1のドローに貢献した。
 
続く5月29日のフランス戦にも先発出場。今度は右サイドバックから果敢に攻め上がりを見せるも世界の壁は厚く、1-4で敗戦した。
 
その後も今藤はガンバ大阪の不動のレギュラーとして君臨。
 
1995年4月1日の横浜マリノス戦では前半22分にJリーグ初得点をマークすると立て続けに26分にも得点を決め、4-0の勝利に貢献した。
 
その後もサントリーシリーズ第23節のフリューゲルス戦やニコスシリーズ第26節のジェフ市原戦でもゴールを決め、このシーズンはリーグ戦43試合に出場して4得点と活躍。
 
しかし1996年12月29日、第76回天皇杯 準決勝の対サンフレッチェ広島戦後半31分、広島のサントスと交錯。
 
一度は立ち上がったものの、頭を押さえて倒れ込み痙攣を起こしたため、担架で運び出された。
 
そしてその後の検査の際に脳腫瘍への罹患が発覚。
 
復帰を目指したが、1998年シーズン途中でガンバ大阪を退団した。

今藤幸治の引退後

今藤は脳腫瘍発覚後、手術を行う。
 
しばらくは車の運転を行うほど元気であったが、2度目の手術の後には軽い言語障害が現れ、3度目の手術の後には右半身が麻痺した。
 
その後、再度手術を繰り返すも、2003年4月17日午前9時43分、今藤幸治は30歳の若さでこの世を去った。
 
悪性の脳腫瘍は5年生存率が数パーセントに満たないという。
 
弟の裕治さんは今藤幸治について、「小さい時からサッカー選手を夢見て、あきらめずに実現した兄は、最後まであきらめずに闘った」と話す。
 
2003年3月、日本代表がウルグアイと対戦した試合を病室で見ながら、裕治さんが「稲本が点を入れたよ」と呼びかけると、今藤幸治は微笑んで頷いた。それが、最後の対話だったという。
 
ガンバ大阪のホームである万博記念競技場に掲げられていた今藤の横断幕は、「風になれ!今藤幸治」だった。
 
疾風のようなスピードでピッチを走り、日本代表まで上り詰めた今藤幸治は、風のような速さでこの世を去ってしまった。
 
もし今藤幸治が病に蝕まれることがなかったら、1998年フランスワールドカップや2002年日韓ワールドカップでその姿を見れたかもしれない。
 
青い疾風が右サイドバックを猛然と駆け上がっていく姿を。