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第101回 ウーゴ・マラドーナってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

神の子と謳われたディエゴ・マラドーナを兄に持つウーゴ・マラドーナ。

欧州では大成できなかったものの、アビスパ福岡やコンサドーレ札幌ではトップ下として攻撃の軸を担い、兄譲りの攻撃センスを見せつけて活躍した。

ウーゴ・マラドーナは、兄とは逆の右利きだが、体格や外見は兄と似ており、ドリブル突破やピンポイントで合わせる事ができるパスセンスは流石としか言いようがない。

ウーゴ・マラドーナのJリーグ入り前

ウーゴ・マラドーナは1969年にアルゼンチンブエノスアイレス州ラヌースに生まれた。
 
ウーゴ・マラドーナは女5人、男3人の8人兄弟の末っ子。
 
9歳上に世界的に有名なディエゴ、6歳上にラウルがいる。
 
兄ラウルは当時スペインリーグでプレーしていた。
 
ウーゴは1985年のU−16世界選手権では、アルヘンティノス・ジュニアーズでチームメートだったフェルナンド・レドンドらとアルゼンチン代表に選出。
 

1985年にアルヘンティノスでプロデビューを飾った。

兄ディエゴ同様に背番号10を背負い、プレーした。
 
その後はアルゼンチンを飛び出し、イタリアのアスコリ、スペインのラーヨとチームを転々とする。
 
1987年に兄ディエゴの在籍するイタリアのナポリへ移籍。この時、ウーゴは23歳だった。
 
しかしナポリでは出番がなく、オーストリアリーグのラピッド・ウィーンへレンタル移籍。
 
しかし出場機会は限られており、その後もベネズエラのデポルティーボ、ウルグアイのCAプログレッソと毎年のようにチームを変えるが満足の行く結果は得られなかった。
 
1992年に日本の東海リーグに所属するPJMフューチャーズ(当時本拠地・浜松市)に入団。
 
ウーゴ入団の記者会見にはテレビや全国紙、サッカー雑誌、一般紙・雑誌を含めて35社ほどの記者が集まり、PJMフューチャーズが始まって以来の大がかりな記者会見となった。
 
当時のPJMフューチャーズは東海リーグに属してはいたが、将来のJリーグ参入とディエゴ・マラドーナ獲得を掲げ話題となっていた。
 
ウーゴの加入は「兄を呼び入れる為の布石だ」とファンやマスコミの間で推測され、会見ではディエゴはいつ来日するのか?、ディエゴ加入はあるのかという質問が相次いだ。
 
この会見の模様はマスコミに大きく取り上げられ、フューチャーズの全国的な知名度の向上に繋がった。
 
ウーゴは1992年5月10日、愛知県口論義グラウンドで行われた東海リーグ第1節名古屋クラブの対戦で東海リーグデビューを果たす。
 
前半1分にアシスト、前半5分にはミケイロのパスをダイレクトで決めてさっそくゴールを挙げると、その後も35分にボレーシュートを決めて前半だけで2得点、1アシストの活躍で格の違いを見せつけた。
 
このシーズンは12試合に出場し、7ゴール、7アシストを記録した。
 
翌年の1993年、JFL2部に昇格したチームにおいても中心人物として君臨し、16試合に出場して7得点を記録。フューチャーズのJFL昇格に貢献した。
 
1994年、JFLにおいてもウーゴの実力は別格で、21試合に出場して17得点と大活躍を収め、その存在感を高めるがこの年限りでフューチャーズを退団。同じカテゴリーの福岡ブルックス(現アビスパ福岡)へ移籍する。
 
福岡ブルックスでもトップ下に君臨し、ウーゴは27試合に出場して27得点を挙げ、ベストイレブンに選出。
 
福岡ブルックスも24勝6敗の成績でJFLで優勝し、1996年からのJリーグ加盟を決めた。
 
福岡ブルックスは「ブルックス」の呼称が紳士服メーカー「ブルックス・ブラザーズ社」の商標で商標権侵害の恐れがあるため、アビスパ福岡へ改名。
 
ウーゴは引き続き1996年も福岡でのプレーを選択した。

ウーゴ・マラドーナのJリーグ入り後

ウーゴはJリーグ開幕後もアビスパのトップ下として君臨。同じアルゼンチンのトログリオや永井篤志と共に中盤の攻撃を担った。
 
リーグ戦21試合に出場して8得点を挙げる活躍を見せるもアビスパは成績が低迷。シーズン成績が15位に沈むと年末にはアビスパを去ることになった。
 
新天地として選んだのはJFLに所属していたコンサドーレ札幌だった。
 
札幌では背番号10を背負い、28試合に出場して10得点を挙げる。札幌はGKにディドハーフナー、センターバックに元ヴェルディのペレイラ、中盤にウーゴ、トップに元パナマ代表のバルデスという軸を置き、24勝4敗という圧倒的な強さでJリーグ昇格を決めた。
 
ウーゴはバルデスと抜群のコンビネーションを披露。この年のJFLベストイレブンに輝いた。
 
1998年、Jリーグに昇格したコンサドーレで再びJリーグの舞台に返り咲くも、28試合に出場して5得点と、JFLで見せたような活躍を見せることは出来ずこの年限りで引退した。

ウーゴ・マラドーナの引退後と現在

ウーゴは引退後、アルゼンチンに帰国。指導者の道を歩み、2004年から2005年までユナイテッドサッカーリーグ(USL、2部リーグに相当)所属のプエルトリコ・アイランダース(スペイン語版)で監督を務めた。
 
2012年にはイタリアナポリの監督就任に意欲を見せるなど今後も指導者としての道を歩む事を望んでいるとコメントしている。
 
JFLでは規格外の活躍を見せるも、Jリーグでは思ったような活躍を見せる事が出来なかったウーゴ。
 
ウーゴは元々のスキルが高く、キープ力があるがゆえ、ボールを持ちすぎてしまう所があった。
 
うまくいけば良い結果に繋がる事もあったが、創世記のアビスパやコンサドーレでは、そのウーゴのキープを生かしきれなかった。
 
結果としてウーゴのキープは効果的な「タメ」にはならず、攻撃の遅延、停滞になってしまったのもJリーグで活躍できなかった要因のひとつかもしれない。
 
いずれにしろ素晴らしい能力があった選手であったことは間違いない。