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第100回 木村和司ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

正確無比なボールコントロールを武器に日産や創世記の横浜マリノスで司令塔を務めた木村和司。

フリーキックの名手としても知られ、日産や日本代表で数多くのゴールを決めた。
 
まだ日本にプロリーグがない時代、木村和司は事実上のプロ選手であるスペシャルライセンスプレイヤーの第1号として契約を結ぶ。
 
1980年代の日本代表は木村和司と共にあった。

木村和司のプロ入り前

木村は1958年に広島県広島市に生まれた。
 
広島市の大河小学校に入学し、大河FCでサッカーを始める。木村はこの大河FCの一期生に当たる。
 
翠町中学校卒業後、広島工業高校へ進学。
 
木村は攻撃的サッカーで名を馳せた広島工業の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残し、ユース代表に選ばれる活躍を見せた。
 
1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属。
 

1979年(昭和54年)、明治大学2年で日本代表入りすると代表チームの常連となった。

981年(昭和56年)に高校の先輩・金田喜稔のいる日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)へ入部した。
 
加入当時の日産自動車はJSL2部に所属していたが、木村はルーキーながら18試合に出場して6得点を挙げるなど活躍しチームを1部に引き上げた。
 
木村は日産加入当初まではウインガーとしてプレーしていたが、1983年(昭和58年)に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバートされ、以降はチームの司令塔としてプレーした。
 
入団2年目からは背番号10を背負い、「日産の背番号10と言えば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番と言えば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在となる。
 

1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)、二年連続日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。

三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位となる。

1985年(昭和60年)、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦では試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは今でもテレビやメディアで特集を組まれる事が多い。

1986年(昭和61年)、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となり、年俸は1200万円だった。

日本代表としては1987年まで召集を受け、国際Aマッチ54試合に出場。26得点の成績を残した。
 

木村は1993年(平成5年)、Jリーグ発足に伴って横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)と契約を結んだ。

木村和司のプロ入り後


横浜マリノスでも背番号10をつけ、開幕戦のヴェルディ川崎に勝利。
 
Jリーグ初年度は21試合に出場する。
 
浦和レッズ戦ではキーパーの頭上を越えてファーサイドに吸い込まれていく芸術的な得点もマークした。
 
1993年にJリーグが出来たことでフリーキックの魔術師として世間の注目を集めることになったが、この時木村は既に34歳。
 
1994年をもって現役を引退した。
 
引退会見では「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残した。

木村和司の引退後と現在

木村は引退後、指導者をめざし、1997年(平成9年)にS級ライセンスを取得。
 
2001年(平成13年)にはフットサル日本代表の監督を務めた。
 
その後は夫人とともに有限会社シュートを設立し(夫人が社長)、サッカーの解説業(主にNHK BS1「Jリーグ」解説)やサッカースクールなどの運営を行った。
 
2010年には横浜Fマリノスの監督に就任。
 
監督就任1年目は8位に留まり、2年目の2011年(平成23年)はシーズン中旬まで優勝争いをしていたが秋に入ってから失速し5位に終わり、12月に解任となった。
 
その後はサッカー解説者として活動していたが、2015年1月、脳梗塞で入院。
 
一命は取り留めたものの右半身に麻痺が残り、懸命なリハビリ生活が始まった。
 
当初は全く感覚もなくトイレに行くことさえ1人では出来ない程であったが、家族の支えもあり、木村は復活。
 
今ではサッカースクールでの指導やテレビ中継での解説を行っている。
 
木村は現在の日本代表を見て、「遊びが足りない」と話す。
 
伝説となった木村和司のフリーキックも、かつては練習後の遊びの延長で始まったという。
 
木村はテレビ番組で、また監督をやりたいか?という質問に対して、やってみたいと答えている。
 
「真面目に遊ぶんだよ。真面目におちょくるんだよ。」
 
永遠のサッカー小僧の挑戦は今後も続いていく。