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第98回 礒貝洋光ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

小学校時代から「天才サッカー少年」として注目され、中学校時代にはU17に飛び級で選出、高校時代は帝京高校で1年生から背番号10を背負い、大学時代に日本代表に選出され、Jリーグ全チームからオファーを受けるなど天才の名を欲しいままにした礒貝洋光。

ラモス瑠偉からは後継者として次期日本代表の司令塔として指名され、フランコバレージが日本と対戦した際には若ければセリエAに連れて行きたいと考えたりなど、礒貝洋光の天才的素質を語る逸話は数多い。
 
技術的なセンスだけなら小野伸二や中田英寿、中村俊輔以上だったという声も少なくなく、礒貝洋光の才能は計り知れなかった。
 
しかし、そんな天才である礒貝洋光も29歳の若さでJリーグを去ることになる。

礒貝洋光のプロ入り前

礒貝は1969年に熊本県下益城郡小川町に生まれた。
 
河江小学校時代からサッカーを始めると、河江少年SSに入団。
 
第5回全日本少年サッカー大会でも活躍し、早くも天才少年として脚光を浴びた。
 
竜北中学でも全国大会に出場するなど順調に成長し、U-17日本代表に選出。
 
礒貝は並み居る先輩たちを差し置いて、エースストライカーを務めた。 
 
1985年、サッカーの名門・帝京高校に進学。
 
礒貝は1年生からレギュラーに抜擢されて、エースナンバー背番号10を任された。
 
翌1986年には、U-20日本代表としてFIFAワールドユースアジア予選に出場。
 
帝京高校では、同期の森山泰行、本田泰人飯島寿久らと共に圧倒的な攻撃力で帝京史上最強と呼ばれた。
 
礒貝が3年時の全国高校サッカー選手権では、磯貝のゲームメイクから森山が5得点するなど順調に勝ち上がり、3回戦で強豪・東海大一校と対戦する。
 
東海大一には澤登正朗、平沢政輝という全国屈指のプレイヤーがおり、歴史に残るような名勝負が繰り広げられた。
 
試合は結局、0-0のまま決着がつかずPK戦にもつれ込み、磯貝が最後にPKを外して涙を呑むことになった。
 
礒貝は高校卒業後、東海大学へ進学。
 
高校時代のライバル澤登正朗がチームメイトとなると、ともに1年生からレギュラーの座を獲得。
 
1学年上に山口素弘もいるなど、チームは強豪となり、1年生時から4年連続で全日本大学サッカー選手権大会決勝に進出。
 
うち2度優勝して、高校時代経験しなかった頂点に立った。 
 

大学在学中の1991年には日本フル代表に選出される。国際Aマッチではないものの2試合に出場を果たした。

その後、磯貝は、さらなる成長を求めて、大学を休学して半年間スペインへの留学を経験した。

日本にもプロリーグを作るべく活動が活発化する中、大学在学中だった礒貝には、全10チームからオファーが届く。
 
磯貝は、馴染みがない関西を本拠とし、世界の釜本と呼ばれたストライカー釜本邦茂が指揮を執っていたパナソニックガンバ大阪を選び、大学を中退して入団する事を決める。 

礒貝洋光のプロ入り後


1993年5月、華々しくJリーグが開幕し、サッカーブームが巻き起こると、ガンバ大阪は開幕戦で浦和レッズに勝利し、スーパールーキー松波正信の入団もあって、ヴェルディ川崎に次ぐ人気を博す。
 
礒貝は前年度に折った靭帯の怪我により出遅れるが、6月に戦線復帰すると華麗なプレーを披露。
 
シジマール(当時・清水エスパルス)が続けていた無失点記録を予告して破るなど、同年は28試合に出場して6ゴールを収めるなど主力として活躍するが、ガンバ大阪は10チーム中の8位に終わった。 
 

礒貝は2年目からチームのキャプテンを任されて、天才と言われたプレーを連発。

左右両足から繰り出されるフリーキックや、相手の隙を就くスルーパスなど翻弄するも、ガンバ大阪は年々チーム順位を下げて、3年目には総合最下位となってしまう。

また、磯貝の評価も大きく二つに割れ始める。

誰もが認めるテクニックを持っていたものの、プレーにムラがあり、中心に位置する礒貝は運動量がなく献身的ではないと評価する者もいた。

日本代表時代のラモス瑠偉がつけていた背番号10の次期候補者とも言われていた礒貝は1995年、日本代表として国際Aマッチデビューを飾る。
 
礒貝は1995年インターコンチネンタル選手権に日本代表として出場。
 
アルゼンチン戦とナイジェリア戦に出場するが、これが最後の代表出場となり、礒貝洋光のサッカーに対するモチベーションはどんどん薄れていく。
 
1996年は、20試合の出場で1ゴールに終わると、翌年浦和レッドダイヤモンズへの移籍が決まる。 

移籍初年度に10試合で3ゴールと相変わらず天才肌のプレーを見せ付けるが、翌年6月、29歳という若さで現役引退を表明した。

礒貝洋光の引退後と現在

礒貝は引退から3年後に突如プロゴルファーに転身。
 
プロテストに一発合格するという才能を見せるが、ツアーで輝くことはなくプロゴルファー生活も数年で幕を閉じた。
 
その後はスポーツ医学のアドバイザーや大工見習い、飲食店の勤務をする傍ら、帝京高校の同期である森山泰行が代表を務めるクラブゴリツァでアドバイザーを務めるなどサッカー界にも関わっている。
 
J1通算135試合出場で、29ゴール。代表キャップ数はわずか2試合。
 
天才と謳われた礒貝洋光の経歴はそのポテンシャルに似つかわしくなくあまりにも寂しいが、29歳という若さでの引退、引退後の礒貝洋光の生き方を見ているとやはり凡人にはない才覚を感じる。
 
あるインタビューで礒貝は、現役時代と現在の自身についてこう答えている。
 
「お金に執着したらしんどいでしょ。高い年俸をもらっていた現役時代も生活の質は今と変わらない。夏はスリッパと短パン。好きなことしかやんない。他人の目も気にしないし、生きる価値観とかもあまり興味ない。人生を目一杯楽しく過ごすだけ」
 
礒貝洋光はプレースタイルだけでなく、生き方も考え方も縛られることを望まない。