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第95回 ハウストラってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

サンフレッチェ広島の左サイドのスペシャリストとして2シーズンプレーしたピーター・ハウストラ。

左ウイングにポジションを取り、確かな技術でアシストを量産し、献身的なディフェンスでもチームを支えた。
 
いわゆる点取り屋タイプの外国人が好まれた創世記のJリーグにおいて、ハウストラの繊細なボールタッチは異彩を放ち、芸術的とも呼べるようなクロスは綺麗な軌道を描いた。

ハウストラのJリーグ入り前

ハウストラは1967年、オランダのルーンガに生まれた。
 
オランダ・フリースラント州のアマチュアクラブ、VVドラシュター・ボーイズでサッカーを学び、17歳の時にエールディヴィジ (1部)・FCフローニンゲンとプロ契約を結ぶ。
 
1984年9月5日対フェーンダム戦にでリーグ戦デビューする。フローニンゲンでのルーキーイヤーはリーグ戦10試合に出場し1得点を記録した。
 
1986年シーズンはオランダ1部のフェーンダムでプレーし、1987年シーズンからは同1部のトゥエンテへ移籍。
 
ハウストラは、トゥエンテで左ウィングとしての才能を開花させる。
 
リーグ戦34試合に出場し8得点を挙げ、1988年にはオランダ最優秀若手賞に輝き、オランダ代表にも選ばれた。
 
オランダ代表として1988年11月16日対イタリア代表戦で代表デビュー。
 
翌年には代表戦4試合に出場するも1990年イタリアワールドカップの代表メンバーには選出されなかった。
 
トゥエンテでは3シーズンプレーし、1990年シーズンからスコットランドのグラスゴーレンジャーズへ移籍。
 
レンジャーズに在籍した5シーズンすべてでリーグ戦優勝に貢献し9連覇の一端を担った。
 
レンジャーズでは5年間で125試合に出場し、22得点を挙げた。
 
1995年、Jリーグサンフレッチェ広島のオランダ人監督ビムヤンセンから声をかけられたハウストラは28歳で次なるステージとして日本行きを決意する。

ハウストラのJリーグ入り後


ハウストラは1995年のサントリーシリーズ第1節セレッソ大阪戦でJリーグデビューを飾る。
 
続く第2節では清水エスパルスを相手に5-0の大勝を収めるが、この試合でハウストラは1得点を挙げ、その他の3点にも絡む活躍を見せた。
 
その後もハウストラは主に背番号11をつけ、左ウイングとして活躍。攻撃のアクセントとして左サイドを支配し、ファンルーンやハシェックへ効果的なラストパスを演出した。
 
シーズン終盤にアキレス腱断裂で戦列を離れていた絶対的エース高木琢也が復帰すると、ハウストラの存在は益々際立ち、精度の高いクロスでアシストを量産した。
 
しかし、勝ちきれないゲームが続き、サンフレッチェ広島は前年度年間2位の成績だったが、1995年は最終的に年間成績10位まで落ち込んだ。
 
ハウストラはシーズン通してレギュラーとして活躍し、リーグ戦35試合に出場。6得点を挙げた。
 
続く1996年もサンフレッチェでのプレーを選択。
 
左ウイングとして、高木琢也やこの年から起用されるようになった久保竜彦と連携し、サンフレッチェの攻撃陣を牽引。
 
6月1日のナビスコ杯ジュビロ磐田戦では1-0で勝つ貴重な得点をマーク。
 
その後も第21節鹿島アントラーズ戦では値千金の同点ゴールを挙げ、試合はPK戦までもつれたがサンフレッチェが辛勝した。
 
このシーズンはリーグ戦28試合に出場して7得点を挙げるも、サンフレッチェ広島は年間順位14位に沈んだ。
 
1997年もサンフレッチェ広島でのプレーが望まれたが、ハウストラはこの年限りで退団。
 
Jリーグでは63試合に出場して13得点の成績を残した。
 
サンフレッチェを退団したハウストラは古巣であるフローニンゲンに復帰。
 
その後はベルギーリーグのリールセやオランダ1部のローゼンダールでプレーし、2000-2001年シーズンをもって現役を引退した。

ハウストラの引退後と現在

ハウストラは引退後、フローニンゲンでユースコーチ、2005年から2008年までフィテッセでアシスタントコーチを歴任。
 
その後は名門アヤックスのアシスタントコーチやフローニンゲンの監督、インドネシア代表のテクニカルディレクターを務め、2016年には日本の福島県リーグ2部に所属していたいわきFCで監督を務めた。
 
この時のインタビューでハウストラは、「いつか指導者として日本に帰ってきたいと思っていた」と語っている。
 
現在は母国オランダで解説者などを務め、日本の堂安律がフローニンゲンに所属する際にはオランダメディアに紹介するなど日本との交流も続いている。
 
個人的にハウストラはJリーグにおいて過小評価されていた外国人選手の1人であると思っている。
 
もし、サンフレッチェ広島が1994年に続く躍進を見せていたならばもっと長い間Jリーグで彼のプレーを見れていたのかもしれない。
 
今度はハウストラがJリーグで指揮をとる姿を見てみたい。