鹿島アントラーズ黄金期を支えた、守備の要である奥野僚右。
その統率力はリーグ屈指で、秋田豊、相馬直樹、名良橋晃という日本代表選手で構成されるDFラインを見事にまとめ、数々のタイトルを獲得した。
奥野僚右は1対1にも強く、カバーリング、コーチング、冷静な判断力などセンターバックとして必要な能力を高いレベルで発揮した。
玄人好みのDF、奥野僚右に迫る。
奥野僚右のプロ入り前
奥野は1968年に京都府京都市に生まれた。
7歳の頃、京都紫光サッカークラブでサッカーを始める。
京都市立上京中学校卒業後、京都府立山城高校へ進学。
奥野は高校3年生の時にセンターバックにコンバートされるが、それまではMFやFWとしてプレーをしていた。
高校3年時に第65回全国高校サッカー選手権に出場。山城高校は1回戦で仙台育英高校に0-2で敗れた。この大会には後に鹿島で共にプレーをする秋田豊(愛知高校)、吉田康弘(東海大第一)も出場していた。
奥野は高校卒業後、早稲田大学へ進学。同期には池田伸康(元浦和レッズ)がいた。
大学2年時のリーグ戦から奥野はレギュラーを獲得する。
大学3年時に、後に鹿島アントラーズで指揮を取ることになる関塚隆が監督に就任した。早稲田大学はインカレで優勝を果たし、奥野は全日本学生選抜に選ばれる活躍を見せた。
1993年、早稲田大学を卒業した奥野は鹿島アントラーズへ入団する。
奥野僚右のプロ入り後
1993年、奥野はルーキーながら、Jリーグ開幕カードとなった名古屋グランパスエイト戦に背番号4をつけて先発出場を果たし、5-0の大勝に貢献した。
奥野はこの時、リーグ戦11試合に出場。鹿島アントラーズのサントリーシリーズ優勝に貢献。
共にセンターバックでパートナーを組んだ秋田豊はフィジカルに優れパワータイプのストッパーであるのに対し、奥野は読みとポジショニングで勝負するタイプだった。
この2人のセンターバックはJリーグでも屈指の守備力を発揮し、その後も長年に渡りコンビを組むことになる。
1994年は秋田豊、大野俊三とディフェンスラインを形成。また早稲田大学の1つ後輩である相馬直樹も鹿島アントラーズへ加入した。
1995年は元ブラジル代表のモーゼルが加入し、レギュラーを争うもリーグ戦40試合に出場した。
奥野はその後もスイーパーとして鹿島アントラーズのDFラインを統率。1996年のJリーグ優勝、1997年の1stステージ優勝、1998年のJリーグ優勝など様々なタイトルを獲得した。