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第53回 石川康ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

鋭いタックルとスライディングを武器にヴェルディやグランパスの右サイドバックを担った石川康。

その攻撃的なスタイルで相手の攻撃の芽を潰し、果敢なオーバーラップで幾度となく攻撃チャンスを演出した。

接触プレーを恐れずに、激しい闘志を燃やして戦う姿は多くの人を魅了した。

ボリビア生まれのJリーガー、石川康に迫る。

石川康のボリビアでの生活

石川は1970年にボリビアのサンタ・クルス・デ・ラ・シエラに生まれた。

両親共に沖縄県からボリビアへの移民で、石川は4人兄弟の末っ子として育った。

家は貧しく、電気と水道がなかったので、石川康は毎日ドラム缶を引っ張り、家から約8km先まで水汲みに出かけていくのが幼少の頃の日課だったという。

石川が7歳のときに、農地を売った金を元に母親が小さなスーパーマーケットを始め、生活が安定。

このとき、初めて家に電気と水道が引かれたというほど貧しい家庭で育った。

石川は夏休みに兄とサンタ・クルス・デ・ラ・シエラにあったサッカー選手養成学校、アカデミア・タウイチ・アギレラの練習に参加し、10歳のときに入校をした。

石川はその後、アカデミア・タウイチの主力メンバーとして1984年、1985年のゴシアカップ連覇に貢献した。

そして2年後のカナダで開催された1987年の第2回ワールド・ジュニア・ユースにもアカデミア・タウイチ・アギレラのチームが参加。

チームは一次リーグ敗退であったが、17歳だった石川は、この時も主力選手として3試合すべてに出場した。

このワールドジュニアユース後に知人を介して日本への留学を勧められた石川は母親の強い勧めもあって、1988年、埼玉県の武南高校に3年生として編入した。

石川康の日本での生活

日本に来た石川は日本語の読み書きなど日常生活に苦労しながらも1年間の高校生生活を送り、サッカー部員としてプレー。

1988年の高校総体でベスト4に入る活躍を見せる。

優勝候補として出場した高校選手権では切り札として期待され、ベスト8進出に貢献した。

石川は高校卒業後は当初ボリビアに戻りサッカーを続けることを考えていたが、当時ホンダの監督であった宮本征勝の勧誘と、出稼ぎに日本にやってきていた父親の後押しがあり日本サッカーリーグの本田技研サッカー部に入部した。

しかし最初は本田技研とプロ契約を結べず、社員として入社し、六畳一間の寮に暮らし、午前中はオートバイの組み立て作業、午後に練習という生活を送った。

本田では1年目からレギュラーを獲得。

背番号24をつけ、初年度は14試合に出場した。

2年目には17試合、3年目は19試合に出場し、石川は本田技研での活躍により、1989年からはバルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され、1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪予選ではリベロを務め中心選手として代表を牽引した。

しかし本田技研はJリーグ入りを表明しなかった為、石川は1992年にヴェルディ川崎へ加入した。

石川康のプロ入り後


ヴェルディに入団後は右サイドバックとして初年度からレギュラーに定着。

初年度はリーグ戦22試合に出場して1得点を挙げヴェルディのJリーグ初代チャンピオンの原動力となった。

その後も不動の右サイドバックとして君臨し続け、ヴェルディの黄金時代を支えた。

石川は1998年に名古屋グランパスへ移籍。

ここでも石川は不動のレギュラーとなり、加入1年目は29試合に出場。

右サイドを駆け上がり、小倉隆史や森山泰行のゴールを何度もアシストした。

名古屋在籍時には一時、「康」から「巧」へと名前の漢字を変えている。

2001年までは毎年二桁出場を続けるが、2002年は出場機会が激減し、1試合のみの出場に留まった。

石川は2002年シーズン後に引退をした。

石川康の引退後と現在

石川は引退後、スポーツマネージメント業務を行う有限会社Globosport‐Asiaを設立。

本業のかたわら、コパ・リベルタドーレスなどの南米サッカーの試合を中継する日本のテレビ局で解説を担当した。

2005年には名古屋グランパスのテクニカルスタッフを務め、その後はFC琉球のゼネラルマネージャーをし、現在はビーチサッカーの東京レキオスBCの監督を務めている。

石川康のように、日本に帰化してJリーグでプレーする選手は少なくない。

今後もJリーグに外国人枠がある限り、帰化選手は増えていくだろう。

しかし石川のように何年も主力として活躍し続ける存在は極めて稀有だ。