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第37回 呂比須ワグナーってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

日本リーグ・JFL・Jリーグの合計得点203は、あの釜本邦茂の202をも凌ぐ。

呂比須ワグナーはサッカー発展途上にあった日本においてまさに理想的なストライカーだった。

柔らかなボールタッチや長身を生かしたポストプレー、レンジにこだわらずどのような体勢でもゴールを狙える呂比須ワグナーは、フランスワールドカップ出場を目論む日本代表の切り札として期待された。

 
その期待通り、フランスワールドカップでは日本唯一の得点である中山雅史のゴールをアシストする活躍を見せる。
 
日本が初めてワールドカップ出場を決めたジョホールバルの歓喜の直前、ブラジルで呂比須の母親が病死するアクシデントがあった。
 
監督に帰国を促される中、呂比須は代表に残り、日本がワールドカップに出場する大きな原動力となった。
 
ワールドカップ初出場に沸く日本の影に呂比須ワグナーの熱い魂があったことを忘れてはならない。

呂比須ワグナーのプロ入り前

呂比須は1969年にブラジル・フランカに生まれた。
 
8人兄弟の末っ子として生まれた呂比須の家庭は貧しく、11歳の頃から学校に通う傍ら、靴工場で働く毎日を送った。
 
朝6時に起きて会社に行き、12時間働いていったん家に帰り、自転車で12キロ走って19時半から学校に向かう。
 
23時に学校が終わると、寝るのはもう夜中だった。
 
サッカーができるのは、土日だけ。そういう毎日の中で、呂比須は裸足でボールを蹴りいつかプロ選手になるという夢を追った。
 
靴工場の給料は1ヶ月で日本円で15000円。
 

給料の10000円を母親に渡し、残りの金額をやりくりして生活を送っていた。

 
そのハングリーさが実を結び、呂比須は16歳の時にブラジルの名門サンパウロFCとプロ契約を勝ち取る。
 
呂比須が初めてスパイクを購入したのはプロになってからだという。

呂比須ワグナーのプロ入り後


しかし当時のサンパウロFCはブラジル代表選手が多く在籍しており、呂比須に出番が回ってくるのは彼らが代表戦で不在の時だけだった。
 
1987年、呂比須が18歳の時に日本の日産自動車サッカー部(現横浜Fマリノス)の監督だった加茂周氏に誘われ、来日し契約を結ぶ。
 
慣れない日本の生活の中で戸惑いながらも懸命にプレー。
 
呂比須は左足首靭帯の怪我に悩まされながらも3年間で日本サッカーリーグ49試合に出場し12得点と活躍するも、日産を契約満了で退団。
 
1990年に日本サッカーリーグ2部の日立(現柏レイソル)へ移籍すると、1年目から22試合に出場し33得点を挙げ得点王になるなど、レベルの違いを見せつける。
 
その後も日本サッカーリーグ1部に昇格した日立で1992年に再度得点王を獲得。
 
1993年にはJリーグ入りを目標とする柏に元ブラジル代表のカレカとネルシーニョが加入。
呂比須はカレカと2トップを組み、18試合に出場し18得点を挙げるなど、ゴールを量産したが、1995年から更に元ブラジル代表FWのミューレルが加入することが決まり、外国人枠から押し出される形で1994年シーズン限りで柏を解雇されてしまう。
 
この頃、日本への帰化手続きを進めていた呂比須だったが、チームを解雇された事ですべて白紙になってしまう。
 
そんな失意の1995、JFLの本田技研に加入した呂比須は2年連続得点王を獲得する活躍を見せる。
 
1997年にはベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)に加入。念願のJリーグ入りを果たす。
同年、日本国籍も取得した呂比須は、得点力不足に悩む日本代表に選出される。
 
ベルマーレには2年間の在籍となったが、2シーズンとも背番号10を背負い、2年連続チーム得点王となる活躍をみせ、1999年には名古屋グランパスへ移籍。
 
名古屋では2シーズンを過ごし、ここでも2年連続チーム得点王となるが2001年にFC東京へ移籍。
 
しかしFC東京ではアマラオの1トップという布陣を形成しており出番に恵まれずシーズン途中でアビスパ福岡へ移籍するが、チームはJ2へ降格してしまう。
 

2002年は初めてとなるJ2に挑み、19試合に出場し6得点という成績を残すものの、年齢からくる衰えを隠せず、同年限りで引退を決意した。

呂比須ワグナーの日本代表での活躍

日本代表では帰化から僅か16日後のフランスワールドカップアジア予選の韓国戦でデビュー。
 
 
代表3戦目となったウズベキスタン戦では三浦知良とツートップを組み、初得点を記録。
 
その後も母の訃報という呂比須にとって大きなアクシデントがあったが、代表メンバーに帯同し続け、ワールドカップ初出場に大きく貢献。
 
フランスワールドカップでは中山雅史のゴールをヘディングでアシストする活躍を見せる。
 
その後、フィリップトルシエ氏に監督が変わった後も選出され、1999年のコパアメリカでは重要な得点をマークするも、当時U23世代の日本代表も指揮していたトルシエ氏の方針により若手世代へ切り替えを余儀なくされ、以降は代表に呼ばれることはなかった。
 
呂比須は日本代表で20試合に出場、5得点の記録を残した。

呂比須ワグナーの引退後と現在

呂比須は引退後、ブラジルに帰国して指導者へ転身。
 
ブラジルのパウリスタFCなどで監督を務め、2012年にガンバ大阪のコーチに就任。
 
成績が振るわず、解任されてしまうが2017年にアルビレックス新潟でも監督を務めた。
 
現在は再びブラジルへ戻り、指導者の道を歩んでいる。
 
呂比須の人間性がわかるエピソードがある。
 
2017年、J2の降格を危ぶまれていたアルビレックス新潟で指揮を執る呂比須は、スタジアムへと向かうバスの中で選手達へこう語りかけた。
 

「ヘッドフォンやイヤフォンをしている人は取ってください。いま、みんなが聞くべきものは音楽じゃない。サポーターの声を聞きましょう。」

音楽を聴くのではなく、共に戦うサポーターの声を聞けと呂比須は語りかけたのだ。

戦っているのは選手達だけではない。サポーター、フロントが一丸となって初めて勝利を手にするのだという呂比須の熱い言葉はサッカーの枠を越えて大きな話題となった。

残念ながらアルビレックス新潟は健闘するもJ2へ降格してしまうが、この呂比須の言葉がチームをひとつにしたことは間違いない。

遠い異国の地で様々な困難を乗り越えて生きてきた呂比須。

だが困難を乗り越えられたのは自分1人の力だけではなく、支えてくれるチームメイト、家族、サポーターの力があってこそだと語っている。

呂比須の言葉は深く、そして重い。