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第36回 福永泰ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

常にハイレベルな試合が求められる浦和レッズにおいて、背番号10は特別な番号だ。

現在、浦和レッズの背番号10は日本代表の柏木陽介が背負うが、過去に浦和の10番を背負ってきた選手達を見てもそのスケールの大きさは流石としか言いようがない。

ベギリスタインから始まり、アドリアーノ、エメルソン、ポンテ、マルシオ・リシャルデス。

多くの外国人が背負ってきた浦和レッズの10番だが、日本人で初めて10番を背負った男がいる。

福永泰。

低迷期から強豪チームに変化を遂げる途中の浦和レッズにおいて、3シーズン、浦和レッズの10番を背負ってプレーした。

正確なボールコントロールとキレのあるドリブル。スピードもあり決定的なラストパスも出せる福永泰は、理想的な10番だったといえる。

浦和レッズの初代日本人10番、福永泰に迫る。

福永泰のプロ入り前

福永は1973年に東京都町田市に生まれた。

南大谷小学校に進み、南大谷キャッツSCでサッカーを学ぶ。

メキメキと力をつけた福永は強豪である桐光学園中学校サッカー部から誘いを受けるまでになる。

桐光学園中学校は元日本代表の中村俊輔(現ジュビロ磐田)や藤本淳吾(現ガンバ大阪)などの名選手を輩出している。

高校は強豪である桐蔭学園に進学。

しかし入学してみたものの、当初はなかなか練習に参加させてもらえなかったという。

毎日練習を重ね、ようやく試合に出させてもらった福永だったが、すぐに交代をさせられてしまう。

理由は左足でボールが蹴れないというものだった。

それから福永は左足のキックの練習を毎日行い、弱点を克服し全国大会で活躍するまでになる。

同級生にはヴェルディ川崎で活躍した林健太郎がおり、1学年上には同じくヴェルディ川崎でプレーをする戸倉健一郎や長谷部茂利がいた。

李国秀監督の元、高校2年時には背番号8を背負い全国高校サッカー選手権に出場。

準々決勝で前橋商業にPK戦の末敗れるが、この大会で福永は5得点を決める活躍をみせた。

高校卒業後、青山学院大学に推薦入学。

ここでも福永は結果を出し、浦和レッズにテスト生として入団。

見事、プロ契約を勝ち取ることに成功する。

福永泰のプロ入り後


浦和レッズ加入1年目の1995年からレギュラーとして活躍し、リーグ戦26試合に出場して4得点を挙げる。

1996年はミスターレッズである福田正博や快速FWの岡野雅行、大柴健二の後方にポジションを取り、元ドイツ代表のバインと共に浦和の攻撃陣を牽引した。

特にエース福田正博とのコンビはフクフクコンビと呼ばれ、他のチームに警戒された。

しかし1997年はギランバレー症候群により、リーグ戦に1試合も出場出来ない悔しいシーズンを送る。

1998年から心機一転、背番号を10にしてFWからボランチまでどこでもこなすプレーヤーとして活躍。

浦和には2001年までの7年間在籍。浦和では通算130試合に出場し、26得点を挙げるが残念ながらタイトルを取ることはできなかった。

2002年は当時J1に初昇格をしたベガルタ仙台に移籍。

開幕からスタメンで活躍するも、6試合目の浦和レッズ戦で左足靭帯を損傷する大怪我を負ってしまう。

このシーズンは以降出場はなく、翌シーズンに復帰を果たすが7試合の出場に留まり、この年限りでユニフォームを脱ぐことになった。

福永泰の引退後、現在

福永は引退後、解説者やフットサルチームの監督を経て母校である青山学院大学サッカー部の監督に就任。

2016年からはベガルタ仙台のコーチとして2年間指導した。

現在ではJリーグを代表するチームとなった浦和レッズだが、なかなか勝てずに下位に低迷していた時代があった。

そんな苦しいチーム状況の中で、福永の卓越したサッカーセンスは眼を見張るものがあった。

強くなっていく過程の浦和レッズの歴史を語るうえでこの男は外せない。

福永の貢献度は記録以上のものがある。