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第27回 田坂和昭ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

茶髪や長髪のJリーガーが多い中、田坂和昭の容姿はピッチで独特の存在感を示していた。

しかし田坂和昭の容姿に目が行くのは最初の数秒だけだ。

クレバーにボールを奪うと、右に左にボールを散らしていく。

劣勢に立たされても、相手の攻撃の芽を早い段階で摘み、ハーフエーラインからまた新たな攻撃の形を模索していく。

ボランチは決して日の当たるポジションではない。

そのうえ、誰よりも走らなければいけないし、考えなければいけない。

そんな過酷なポジションで、田坂和昭は存在を示し続けた。

田坂和昭のプロ入り前

1971年、田坂は広島県広島市に生まれた。

田坂は被爆3世。

祖父の被爆が原因で、生まれつき毛が生えなかった。

幼少期の田坂はどこに行くにしても、地元広島のプロ野球チーム広島カープの赤い野球帽を被って出かけ、どんな時も帽子を取ることはなかった。

田坂は小学校3年生でサッカーと出会う。

木村和司や森島寛晃を育んだ少年サッカークラブ「広島大河フットボールクラブ」に入部し、技術を磨いた。

高校は静岡県の東海大学第一高等学校(現 東海大学付属静岡翔洋高等学校)に進学。

高校では当初、攻撃的MFとしてプレーし、途中から守備的MFにコンバートされる。

高校時代は全国大会に出場することはなかったが、高校3年時にはユース代表に選出された。

高校を卒業した田坂は東海大学に進学。

東海大学1年生の時には全日本サッカー選手権大会で優勝、そして翌91年には総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝を経験。

多数のJリーグクラブチームからの声がかかり、当初は横浜フリューゲルス入りを決意していたが、当時のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の強化部長や監督、ヘッドコーチやユース代表時からの友人であり先にベルマーレに所属していた名良橋晃から熱烈な誘いを受け、ベルマーレ入りを決める。

田坂和昭のプロ入り後


1994年、大学を卒業しベルマーレ平塚に入団した田坂は、ルーキーイヤーながら開幕戦からスタメンとして出場。

当初はJリーグ屈指の超攻撃的サイドバックといわれた岩本輝雄、名良橋晃のフォローに追い回されたり、接触プレーにより顔面を骨折するなどしたが、チームの中心選手として活躍。

田坂はJリーグ新人王を獲得し、リーグ屈指の人気選手となった。

プロ入り2年目には日本代表に選出。

当時の監督である加茂周氏には、田坂の守備能力の高さを生かしてストッパーとして起用されるも、不慣れなポジションのため思ったような活躍が出来ず、代表に定着できなかった。

1998年、ベルマーレの親会社であるフジタの経営が悪化。

田坂は当時ベルマーレの高額契約の選手であった小島伸幸、呂比須ワグナー、名塚善寛、洪明甫と共に自由契約となり、清水エスパルスに移籍。

清水エスパルスには1年のみの在籍となったが13試合に出場し2得点を挙げた。

またこの年、当時の日本代表監督であるフィリップトルシエ氏により再び日本代表に選出。

キリンビバレッジサッカー99の日本対ブラジル戦でスタメン起用された。

翌2000年にはセレッソ大阪に移籍。

田坂は主力選手としてセレッソ大阪の1stステージ優勝争いに貢献した。

セレッソには2002年シーズンまで在籍し、その年限りで現役を引退。

田坂はJリーグ通算265試合出場9得点の成績を残した。

田坂和昭の引退後と現在

 田坂は2002年の引退後、指導者に転身。

セレッソ大阪や清水エスパルスこコーチを歴任し、2011年にはJ2の大分トリニータの監督に就任。2012年には大分のJ1昇格に貢献した。

2015年には大榎克己の跡を継いで清水エスパルスの監督に就任するもエスパルスはJ2に降格し、田坂も監督を辞任した。

2017年にはJ3の福島ユナイテッドで指揮をとり、2019年からはJ2の栃木SCの監督としてチームを率いる。

守備の天才がどのようなチームを作るのか。

田坂の采配に注目をが集まる。