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第24回 森岡隆三ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る。

2002年の日韓ワールドカップ。

フィリップトルシエが掲げる「フラットスリー」という戦術を統一したのは宮本恒靖だった。

宮本はそのキャプテンシーと鼻骨骨折をカバーするフェイスガードを装着した姿で一躍有名になった。

しかし、もし怪我がなければピッチに立っていたのは森岡隆三だったのかもしれない。森岡はそれまでトルシエから絶大な信頼を寄せられ、個性溢れる日本代表のキャプテンとしてスタメン出場を続けていた。

日本を代表するセンターバック、森岡隆三に迫る。

森岡隆三のプロ入り前

森岡は1975年に神奈川県横浜市に生まれた。

幼いころからサッカーに明け暮れ、中学は桐蔭学園中学に進み、MFでプレーした。

高校は数々のJリーガーを輩出した桐蔭学園高校に進学。

高校時代の監督は後のヴェルディ川崎などで指揮を執った李国秀氏だった。

森岡は李国秀氏に見出されDFにコンバートされる。

これがサッカー選手としての成功の礎となった。

そして1994年に鹿島アントラーズに加入する。

森岡隆三のプロでの活躍


森岡は鹿島に加入するも出場機会に恵まれず、翌年1995年には清水エスパルスに移籍をする。

ここで森岡は21歳でレギュラーを獲得。

エスパルスではDFながら背番号「11」を背負い、CBの核として活躍。

1999年にはJリーグベストイレブンに選出。

エスパルスではキャプテンを任され、その年に日本代表に選出され、キャプテンを務めた。

エスパルスでは11年間でカップ戦なども含め、6度の優勝を経験した。

森岡は2005年までエスパルスで不動のレギュラーとして活躍するが、2006年に若手の成長により出場機会が減り、2007年にJ2の京都サンガへ移籍。

初めてのJ2での戦いに戸惑うも、キャプテンとして京都のJ1昇格に貢献した。

しかし翌年はまたしても若手にポジションを奪われてしまい、出場機会が減り、そのシーズン終わりで引退を決意する。

森岡隆三、32歳での引退だった。

森岡隆三の日本代表での活躍

森岡は1999年に初めて日本代表に選出される。

森岡自身、1999年はエスパルスで2ndステージ優勝を果たし、ベストイレブンに選出されるなど好調なシーズンだった。

この年の日本代表DFは前年度のフランスワールドカップに出場した井原正巳小村徳男秋田豊などから、若手の森岡隆三、松田直樹、中澤佑二などへスイッチする転換の年だった。

その中で森岡はキリンカップやアジアカップなどでコンスタントに出場機会を獲得し、トルシエ監督の信頼を得る。

キャプテンに就任した森岡は、トルシエ監督の用いた戦術である「フラットスリー」の真ん中として日本のDF陣を統一する。

トルシエ監督から絶大な信頼を得ていた森岡は2002年の日韓ワールドカップにスタメンとして出場。

しかし、初戦のベルギー戦で相手選手と接触し途中交代。

代わりに入った宮本恒靖はキャプテンとして、チームを牽引。

森岡は結局、その怪我が原因で残りの試合には出場することができずにワールドカップを終える。

しかし森岡は試合に出れずとも、選手を鼓舞し続け、スタメンとして出場するGKの楢崎正剛や、宮本恒靖、中田浩二などにアドバイスを送り続けた。

日本代表の監督がジーコに代わった後は序盤こそ出場機会があるも、徐々に代表によばれなくなる。

森岡は日本代表では38キャップ出場という成績を残した。

森岡隆三の引退後と現在

森岡は引退後の2009年に京都サンガのコーチに就任。

2015年に京都サンガU18の監督に就任しJリーグユース選手権大会で3位に入賞するなどの結果を残した。

そして2017年にはガイナーレ鳥取の監督を経て、現在は東京都社会人サッカーリーグ1部に所属するCriacao Shinjukuのアドバイザーに就任し活躍をしている。

あの時の怪我がなければ、どうなっていたのだろうか。

もしかしたら、森岡にとっても日本代表にとっても違った未来があったのかもしれない。

しかし、たとえ試合に出れなくとも声を出し続けた森岡の存在をなくして、日本のワールドカップでの活躍は語れない。

DFながら背番号11を背負う森岡の存在は試合に出ていなくとも偉大だったに違いない。