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第6回 柳本啓成ってどんな人?生い立ちやプレースタイルに迫る

Jリーグ開幕時。

派手な紫色のユニフォームをまとい、右サイドを駆け上がっていく柳本啓成の姿に心が躍った。

相手FWにどんなに裏を取られても、たちまち追いついてしまう。

彼は人気ひしめくJリーグの中に置いて、そのルックスもありアイドル的扱いを受けた。

しかし、柳本は決してアイドルではない。

柳本は職人だ。

センターバックも、サイドバックも、ウィングバックも、リベロもこなすピッチの中の職人だった。

今回はその柳本啓成に迫っていく。

柳本啓成のプロ入り前

柳本は1972年、大阪府東大阪市に生まれる。

小学校2年の時に奈良県に引っ越し、ジュニアチームで頭角を現していく。

奈良育英高校卒業後、マツダに入社。

当時はまだJリーグはなく、働きながらボールを追いかける日々だった。

その後、サンフレッチェ広島の設立とともにプロ契約を結ぶ。

当時の監督であるバクスター氏に見出され、93年は右サイドバック、94年はセンターバックとしてプレーした。

抜群の身体能力とスピードでチームを牽引し、サンフレッチェのサントリーシリーズ制覇に貢献。

しかし1997年末、サンフレッチェの経営危機により森保一、高木琢也、路木龍次が相次いで放出され、サンフレッチェは低迷の時代に入っていく。

柳本自身も移籍を志願し、1999年はガンバ大阪に移籍する。

柳本啓成のプロ入り後


柳本はサンフレッチェでの活躍が認められ、当時の日本代表監督である加茂周氏に招集される。

加茂氏は柳本のことを「柳本は6つのポジションをこなすことが出来る」と発言するなど、

その高いユーティリティ性を評価していた。

代表では主に左右のサイドバックでプレー。

代表では思に中村忠(当時ヴェルディ川崎)、名良橋晃(当時鹿島アントラーズ)とレギュラーを争った。

一時は代表でも完全にレギュラー格となっていたが、怪我に泣かされた。

柳本の日本代表ラストゲームは1997年3月のネパール戦。

躍動を期待された男はフランスの地を踏むことなく代表から遠ざかった。

柳本は1999から2002年までガンバ大阪に在籍。

右ウイングバックや右サイドバックとしてプレーをした。

2003年から2006年まではセレッソ大阪でプレー。

セレッソでは主にストッパーやリベロとして働き、これまでの経験をチームに還元した。

2006年末、柳本は惜しまれながら現役を引退する。

柳本が34歳の時だった。

柳本啓成の引退後と現在

柳本は現役引退後、地元の奈良県で人工芝グラウンドの『YANAGI FIELD』を設立。

設立した理由を柳本はこう話す。

「奈良で行なわれたサッカースクールにゲストで呼ばれたとき、奈良には芝のグラウンドがほとんどないと聞きました。そのときに、子供たちのためにサッカーの環境を整えたいと思ったのです。」

『YANAGI FIELD』で2009年の春にサッカースクールを始め、周囲の要望もあり、チームも設立。

柳本が創ったチーム『YF NARATESORO(奈良テソロ)』にはサッカースクールも含めると幼稚園児から中学生まで約300人が通う。

ジュニア世代の育成に力を注ぐ柳本。

『YANAGI FIELD』で育った子供が世界を股にかけて、疾風のごとくピッチを駆け上がっていく日がくるのも遠くないのかもしれない。現役時代の柳本のように。