相手チームから放たれるクロスボールをいとも簡単に跳ね返す。
その滞空時間の長さに驚きを隠せない。
土屋征夫。通称、鉄人。
44歳の土屋征夫はいまだにピッチに君臨している。
そのトレードマークとなったスキンヘッドも印象深い。愛称はバウル。
ブラジルに留学した時に住んでいた街の名前から彼はそう呼ばれた。
バウルに迫っていく。
土屋征夫のプロ入り前
土屋の学生時代は興味深い。
小学校2年から中学まで三菱養和SCに所属していたが、中学3年時に転校してから土屋はサッカーから離れている。
高校では書道部に所属していた。
その理由を土屋は明るく話す。
「高校でもサッカー部に一週間だけいたんだけど、弱いくせに上下関係が厳しくて・・・仲のいい友達みんなで辞めたんですよ。それから『じゃあ、何するんだ?』って相談していたら、どうも書道部は一年に一回しか活動がなくて、それも文化祭の前の日に一枚書けばオーケーらしいぞ、と。それで入部しただけなんだよね。」
土屋はなんと高校のほとんどをボールを触らずに過ごしている。
それでもサッカーに対して熱い思いがあった土屋は親の勧めもあり、ブラジルへの留学を決意する。
それでも当初はプロ選手になるつもりはなかった。
当時の思いを土屋はこう話している。
「(ブラジルに行って)3年目ぐらいでサッカーは辞めようかなと思っていたんだけど、『大学行ったと思って4年続けてみなさい』と親に言われたので4年はやってみた。そして4年が経って日本に戻るときに、ヴェルディがテストしてくれるって聞いて。それで受からなかったらサッカーは辞めようと思ってた」
日本に帰ってきた土屋はヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のテストに合格。
土屋はJリーガーとなった。
土屋征夫のプロ入り後
ヴェルディでは主にサイドバックとしてプレーしていた土屋だが、1999年にヴィッセル神戸に移籍してからはセンターバックでプレー。
2001年には日本代表候補にも名前が挙がった。
神戸では北本久仁衛、シジクレイと3バックを形成。
3人ともスキンヘッドということもあり、当時の日本代表監督トルシエ氏の戦術である「フラット・スリー」にあやかり、「ピカッとスリー」と呼ばれ、人気を博した。
共にDFラインを形成した北本からは「影響を受けた選手」に土屋の名前を挙げ、スキンヘッドのスタイルも土屋の影響だと話している。
その後、土屋は2005年に柏レイソルへ移籍。
2006年には大宮アルディージャでプレーをして、2007年に東京ヴェルディに復帰した。
復帰した東京ヴェルディで土屋は絶対的な存在となった。
自身初めてのJ2での戦いだったが、1年でのJ1復帰に大きく貢献。
この頃、土屋は32歳。
チームで活躍する元ブラジル代表フッキ(現上海上港)は当時20歳。
元日本代表の柴﨑晃誠(現サンフレッチェ広島)は加入したばかりの22歳だった。
チームには元日本代表の名波浩(現ジュビロ磐田監督)や服部年宏(現静岡サッカー協会理事)などベテランも多く在籍していた。
土屋は自身もベテランの域であるにも関わらず、若手とベテランの橋渡し役に努めた。
1年でJ2に降格した後も、常に中心選手として在り続けた。
ヴェルディでは6年のシーズンを過ごし、J1のヴァンフォーレ甲府に移籍。
土屋が38歳での移籍だった。
土屋征夫の引退後と現在
その後、土田は京都サンガでのプレーを経て、関東1部の東京23FCへ移籍をする。
土田は引退について聞かれた際にこう答えている。
「もうここまでくるとね、なんかやめるとかやめないとか、よくわかんないですよ(笑)。」
いくら驚異的な身体能力が土屋の武器とはいえ、44歳という年齢とともに訪れるスピードやジャンプ力の衰えは隠せず、土屋自身も実感している。
しかし今までの経験を生かして、食事面や筋力トレーニングを増やし、それをカバーしている。
サッカーに対する意欲や意識については衰えず、毎日ボールに触りたいと土屋は話す。
ピッチで躍動するバウルの姿はもうしばらく見れそうだ。