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藤ヶ谷陽介の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【293回】

至近距離でのシュートや空中戦に絶対的な強さを発揮するGK藤ヶ谷陽介。

コンサドーレ札幌でデビュー後、世代別日本代表や移籍したガンバ大阪で守護神として活躍。

ガンバ大阪では松代直樹と激しいポジション争いを繰り広げながらもコンスタントに出場。Jリーグ、天皇杯、ナビスコカップ、そしてACLなど数多くのタイトル獲得に貢献した。

現役晩年にはジュビロ磐田から再びガンバ大阪へ復帰。出場機会は少なかったがベテランが献身的にチームを支える姿は若手への良き見本となった。

藤ヶ谷陽介のJリーグ入り前


藤ヶ谷は1981年に静岡県浜松市に生まれた。

中ノ町小学校3年生の時にサッカーを始め、中ノ町サッカースポーツ少年団に入部。 小学校4年次には浜松市の選抜チームである浜松JFCにゴールキーパーとして選出され、以後重要な試合の際はゴールキーパーとして試合に出た。

天竜中学校サッカー部からはGKに専念。静岡県西部選抜に選抜される。

中学校卒業後、磐田東高等学校に進学。同級生に古橋達弥がいる。高校時代は全国大会への出場は無かったがサッカー部監督の伝手で高校3年の夏休みにJリーグクラブの練習に参加。

その中からコンサドーレ札幌からオファーが届き、高校卒業後に入団する。

藤ヶ谷陽介のJリーグ入り後

コンサドーレに加入後は1999年10月31日J2第33節川崎フロンターレ戦74分に佐藤洋平が退場処分を受けた事に伴う途中交代でJリーグデビューを果たす。

その後、リーグ戦ではほとんど出場の機会はなかったが年代別日本代表に選出される。西村昭宏監督に見いだされ2001年にはU20ワールドユース日本代表としてアルゼンチン大会に出場を果たしたがグループリーグで敗退した。

2002年には山本昌邦監督の元、U21日本代表として釜山で行われたアジア競技大会に出場し準優勝を経験した。

この活躍を受けて2003年からはコンサドーレでレギュラーを掴む。しかし2004年、コンサドーレは得点力不足に悩みリーグ戦で僅か5勝しか挙げることが出来ず最終順位が最下位となった。

2005年、オファーを受けてガンバ大阪に移籍。

入団当初はベンチに座る日々が続いたが、正GKだった松代直樹の故障もあって、この年のシーズン後半からレギュラーとなり、ガンバ大阪のリーグ初優勝に貢献。2007年にはナビスコカップ制覇、2008年からは2年連続で天皇杯優勝に貢献した。また2008年にはACLで優勝を達成。

2010年からは背番号1を背負うとリーグ戦全試合に出場。名実ともにガンバ大阪の正GKとなる。 しかし2012年には不安定なプレーが続き、一時はレギュラーを木村敦志に奪われる。その後はレギュラーに復活するもガンバは低迷しJ2へ降格した。 2013年はJ2で全試合にフル出場を果たし1年でのJ1復帰に貢献。しかし契約満了に伴いこの年をもってガンバを退団。

2014年はJ2のジュビロ磐田へ移籍するも出場機会は多くなかった。 2015年にガンバ大阪へ復帰。東口順昭の控えとしてチームを支える。

2017年、ガンバ大阪を契約満了につき退団。現役引退を表明した。

藤ヶ谷陽介の引退後と現在

藤ヶ谷は引退後、2018年からガンバ大阪ジュニアユースのGKコーチに就任。後進の育成に励んでいる。

藤ヶ谷は現役時代、ガンバ大阪でJ1リーグ1回、ナビスコ杯1回、天皇杯3回、ACL1回という6つのタイトルを獲得した。ガンバ大阪で出場した試合は260試合にも及ぶ。

2013年にガンバから戦力外通告を受け退団し、その後ジュビロ磐田を経て2015年に再びガンバ大阪へ戻ってきた。 ガンバ大阪には日本代表GK東口順昭がおり、入団前から藤ヶ谷の出場機会は少ない事が予想できた。年齢的にもあと何年続けられるか分からない状況だったが、それでも藤ヶ谷は一度自分を切った古巣へ復帰を果たした。もう一度ガンバ大阪に戻れるという事に喜びを感じて。

その後、藤ヶ谷はベテランGKとしてガンバ大阪を支え、練習から献身的にチームを盛り上げた。東口がトップパフォーマンスを出せるように。若いキーパーが自分の姿を見て何かを感じ取れるように。そしていつ出番が来ても最高の状態で出場できるように。

藤ヶ谷は全てのプライドを捨て最後まで戦い続けたのだ。「元守護神」としてではなく「前守護神」として。

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