本来はFWだが、ウイングやトップ下など攻撃的なMFのポジションも高いレベルでプレーできる薮田光教。
読売ユースからヴェルディ川崎に昇格、U20日本代表に選出されFIFAワールドユースに出場した実績をもつ。
しかしその後は結果が出せずJFLへ戦いの場を移すがそこでリーグ戦12得点を挙げJリーグの舞台へ再び戻ってきた苦労人。
2006年には所属するアビスパ福岡でチーム得点王となる活躍を見せた。
技巧派FW、薮田光教に迫る。
薮田光教のプロ入り前
地元のサッカーチーム川崎YMCAに所属。同期には菅原智や高田保則の兄がいた。
中学入学後、読売のジュニアユースに加入。神奈川県立川崎北高校に進学後は読売ユースに昇格した。同期には財前宣之、菅原智、一木太郎らがいる。読売ユースでは1993年にJリーグユースカップ優勝、1994年に全日本ユース準優勝を経験した。
1995年、高校卒業後に読売日本SCユースからヴェルディ川崎に昇格する。
薮田光教のプロ入り後
ヴェルディ加入後、薮田はU20日本代表に選出。カタールで行われたワールドユースに出場を果たし、グループリーグのブルンジ戦とベスト4進出をかけて戦ったブラジル戦で出場を果たしたがブラジル戦は1-2で惜しくも敗れている。
一方、ヴェルディではトップチーム昇格後、2年間は全く出場出来ずサテライトでの調整が続いた。3年目の1997年8月16日2ndステージ第5節清水エスパルス戦でJリーグ初出場。この年はリーグ戦2試合に出場した。
1998年は出場機会を増やしリーグ戦11試合に出場するも層の厚いヴェルディではレギュラーを獲得出来ず1999年に、誕生したばかりのJFLチーム、横浜FCに移籍。
横浜FCでキャリアハイとなるリーグ戦23試合出場12得点をあげJリーグ昇格に貢献した。薮田はこのシーズンのベストイレブンに選出された。
この活躍を受け、ヴィッセル神戸からオファーを受けた薮田は練習生として参加した沖縄キャンプで沖縄県学生選抜と40分ハーフの練習試合を行った際、後半から出場しハットトリックを達成させ8-0で沖縄県学生選抜に快勝した。
2000年にJ1のヴィッセル神戸に移籍。
ヴィッセル神戸では本職のFWだけでなく堅実かつ攻撃的MFとして活躍。得点数は少なかったものの攻撃的なポジションならどこでも対応できる薮田は重宝され6年間の在籍でリーグ戦117試合に出場したがJ2降格を機に退団。
2006年にアビスパ福岡に移籍。
2列目での出場が多かったが、リーグ戦29試合に出場しチームトップとなる5得点を挙げた。しかしアビスパ福岡はこの年、J2に降格した為、2007年にJ1へ昇格した古巣の横浜FCへ加入。
横浜FCでは攻撃の起点として期待されるも奮わず、横浜FCは前半戦を最下位で折り返し、その後も巻き返せずに10月20日の神戸戦に敗れ、J2降格が決定。これで薮田は3年連続J2降格を経験するという事になった。
2008年はJ2のFC岐阜へ入団するが怪我の影響と年齢による衰えから精彩を欠き、リーグ戦無得点に終わる。
このシーズン終了後、現役引退を表明した。
薮田光教の引退後と現在
薮田光教は引退後、古巣である横浜FCのアカデミーコーチを務め、現在はジュニアユースの監督に就任している。
薮田は現役時代、5チームを渡り歩き14年間のプロ生活を送った。
Jリーグでの成績はリーグ戦185試合の出場で15得点とFWとしては物足りない数字に見えるがFWとしてシーズン通して起用された年はほとんどなく、サイドハーフやトップ下など様々なポジションで起用された。
それはテクニック、キープ力、キックの精度など全てにおいて薮田は安定した能力を有していたからに他ならない。