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片野坂知宏の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第22回】

サンフレッチェ広島の左サイドバックは優秀だ。

マイアミの奇跡の起こした路木龍次、連続試合フルタイム出場のJリーグ記録をもったことのある「鉄人」服部公太、そして片野坂知宏だ。

サンフレッチェ広島初優勝を果たしたバクスター監督の元、片野坂は不動のレギュラーとして躍動した。

優秀な指導者としても知られる片野坂知宏に迫っていく。

片野坂知宏のプロ入り前


片野坂は1971年に鹿児島県鹿児島市に生まれた。

錦江台小学校3年生からサッカーを始め、鹿児島市立和田中学校へ進学。

その後、Jリーガーを多く輩出した鹿児島実業高等学校へ進学する。

高校時代は国体への出場と、全国高校サッカー選手権を経験。

高校3年時に出場した選手権では準々決勝で武南高校に0-1で敗れるも鹿児島実業のベスト8進出に貢献した。

高校卒業後の1990年、片野坂は日本サッカーリーグの2部に在籍していたマツダSC(現在のサンフレッチェ広島)に加入する。

片野坂知宏のプロ入り後

マツダSCのサテライトにあたるマツダSC東洋でプレーをし、左サイドバックとして徐々に頭角をあらわしていく。

1993年、Jリーグが開幕すると左サイドバックのレギュラーとして活躍。

当時、鉄壁の守備陣を誇ったサンフレッチェのDFの一角として躍動した。

1994年にはサンフレッチェ広島のステージ優勝に貢献。

サンフレッチェのDFラインは片野坂知宏・佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを高く保つことで裏のスペースはスピードのあるCBの柳本と佐藤が対応するシステムを用いた。

片野坂は、当時手薄といわれた日本代表の左サイドバックを埋める逸材として期待されたが、1995年にバクスターからヤンセンに監督が代わると、路木が起用されるようになり出場機会が激減する。

片野坂は出場機会を求めて、柏レイソルに移籍を決断。

当時、このことによりサンフレッチェ広島のクラブハウスに多くのサポーターから抗議の電話があったといわれている。

柏レイソルに移籍後、出場機会を得た片野坂は1999年まで在籍し、レギュラーとして活躍。

柏ではリーグ戦103試合に出場し8得点を記録。

得点能力の高さも証明した。

その後、片野坂は2000年から当時J2の大分トリニータに移籍。

2000年途中からガンバ大阪に期限付き移籍をし、2002年はベガルタ仙台でプレー。

2003年は大分に復帰したが、同年限りで引退をした。

片野坂知宏の引退後と現在

片野坂は引退後、大分トリニータのスタッフとして勤務。

スカウトも担当し、日本代表にまで上り詰めた森重真人などを入団させた。

その後、Jリーグの監督をするために必要なS級ライセンスを取得。

2007年からガンバ大阪のコーチに就任した。

元日本代表監督であり、当時のガンバ大阪監督の西野朗を陰で支え、ガンバ大阪は2008年にACLを制覇。片野坂は無敗でのアジア制覇に貢献した。

そして2010年からはサンフレッチェ広島のコーチに就任。

当時の監督であるペドロヴィッチや森保一(現日本代表監督)を支え、2012年にはサンフレッチェの年間総合優勝に貢献した。

2014年にはガンバ大阪のヘッドコーチに就任。

長谷川健太監督とタッグを組み、リーグ優勝に貢献した。

片野坂は引退後、指導者として極めて優秀な成績を残している。

そして片野坂は2016年に当時J3の大分トリニータの監督に就任。

終盤で追い上げを見せて、J3優勝を達成。

大分トリニータを1年でJ2昇格に導いた。

2017年はJ2中位の成績を収め、2018年は大分トリニータをJ1昇格に導いた。

片野坂は3年でJ3のチームをJ1に導いた手腕を評価され、優秀監督賞を受賞した。

Jリーグ創世記の選手が監督や指導者として活躍をする現在、片野坂知宏ほど、優秀な成績を収めている人物はいないのかもしれない。

今後も指導者としての片野坂の手腕から目を離せない。

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