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上野優作の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第93回】

高い打点でのヘディングや動き出しの速さが持ち味のFW、上野優作。

アルビレックス新潟在籍時にはJ1昇格を決める決勝点を挙げるなど、シーズン通して活躍し、昇格の立役者となった。

ゴールのみならずポストプレーにも優れており、サンフレッチェ広島在籍時には佐藤寿人のJリーグ最速ゴール(開始8秒)をアシストしている。

身体能力に特筆すべき点はないものの、前線からの献身的な守備や、ピッチ内を所狭しと走り回る運動量も上野優作の大きな武器だ。

ストライカー、上野優作に迫る。

上野優作のプロ入り前


上野は1973年に栃木県真岡市に生まれた。

真岡西小学校2年の時にサッカーを始める。ポジションは最初からFWだった。

人に負けることなど考えられないと思うほどの大の負けず嫌いで、練習を一生懸命やらないチームメイトがいれば怒って帰るほど熱い少年だったという。

小学校6年生の時に亀山小学校に転校し、真岡中学校へ進学。

真岡高校時代もFWとして活躍し、高校1年時か全国高校サッカー選手権に出場。

高校3年時に出場した第70回全国高校サッカー選手権では背番号10をつけて挑む。

2回戦で松波正信擁する帝京高校に1-2で惜敗するも上野は大会優秀選手に選出された。

高校卒業後、サッカーの名門である筑波大学へと進学。

大学進学後も、1年時からアジアユース日本代表に選出。

2年時にはユニバーシアード日本代表に選出された。

大学4年時の夏季ユニバーシアードでは、FWのスタメンとして出場。しかし準決勝のロシアとの前半戦、上野は早い時間帯で相手選手と小競り合いを起こして1発退場となった。

チームは勝利し、決勝に勝ち進んだが 出場停止処分を受けた上野は、決勝戦のピッチに立つことが出来なかった。

日本チームはその後勝ち進み優勝したが、チームに迷惑をかけたこと、また自身が決勝戦に出られなかったことを非常に悔やみ、プロ入り後はクリーンなプレーを心がけたと後に語っている。

大学卒業後の1996年、上野はJ1のアビスパ福岡に入団する。

上野優作のプロ入り後

アビスパに入団した上野は入団1年目からレギュラーとして活躍し、リーグ戦27試合に出場して7得点を挙げる。

低迷するアビスパ福岡において、上野は孤軍奮闘の活躍を見せた。

2年目のシーズンとなる1997年にも31試合に出場し8得点を挙げる。同期入団の山下芳輝と2トップを組み、アビスパ福岡の2部降格の危機を救った。

しかし1998年あたりから出場機会が減少し、1999年はほとんどがサブとしての出場となり、リーグ戦では2シーズンで2得点の成績に収まった。

2000年、上野はサンフレッチェ広島へ移籍。久保竜彦が代表で不在時のFWとして期待されるも、リーグ戦は5試合のみの出場に留まり、翌年J2の京都パープルサンガへ移籍した。

京都では黒部光昭と2トップを形成。松井大輔や朴智星という強力なMFの支えもあり、上野は自身初となる二桁得点をマーク(42試合に出場10得点)。京都のJ1昇格に貢献した。

2002年も京都でプレーし、2003年からはJ2のアルビレックス新潟へ移籍。

アルビレックス新潟では、日本人最多のシーズン13ゴールを挙げ新潟のJ1昇格に貢献した。

特に第41節のコンサドーレ札幌戦では試合終了間際に値千金の同点ゴールを決めるなど2得点を奪う活躍を見せた。

その後は2シーズン、新潟でプレーしサンフレッチェ広島へ移籍するも満足のいく出場機会は得られず、2007年に当時JFLに所属していた栃木SCへ移籍。山下芳輝と再度2トップを組んだ。

経験豊富なベテランとしてチームをまとめ、2年目のシーズンはリーグ戦28試合に出場し8得点を挙げる。

そして栃木SCがJリーグに昇格したこの年、選手としての13年間に幕を引き、地元栃木で引退を決めた。

上野優作の引退後と現在

上野は引退後、2010年から5年間栃木SCでコーチを務め、2015年からは浦和レッズのフロントに入り、浦和の育成ダイレクターとして活躍した。

その後は、2021年1月21日からサッカー日本代表のコーチに就任。

2023シーズンよりFC岐阜の監督に就任している。

京都パープルサンガやアルビレックス新潟でJ1に昇格する原動力となった上野は、昇格請負人と呼ばれた。

JリーグからJFLまで全てのカテゴリーを含めて奪ったゴールは421試合で69ゴールに及ぶ。

数字だけ見ればストライカーとして決して多くないゴール数かもしれないが、その奪った69ゴールは昇格を決めるゴールであったり、残留を決めるゴールであったりと印象深いものが多い。

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