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前川和也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第42回】

身長189センチの恵まれた体格はまるで生きている壁のようだと形容された。

前川和也はサンフレッチェ広島や大分トリニータ、そして日本代表のゴールマウスを守り続けた。

空中戦に強く、1対1での絶対的な強さが前川の武器だった。

日本代表では偉大な先輩GK松永成立や彗星のごとく現れた川口能活の間に挟まれる形で日の出をみる機会は少なかったが、それでも代表17キャップは立派な数字だ。

前川は33歳で現役を退くまで、ピッチの一番後方で選手を鼓舞し続けた。

前川和也のプロ入り前


前川は1968年に長崎県平戸市に生まれた。

長崎県平戸市立紐差小学校でサッカーを始め、長崎県平戸市立中部中学校を経てサッカーの強豪である長崎県立平戸高等学校に進学する。

高校3年時には長崎県代表として全国高校サッカー選手権に出場。

長崎県予選では後にサンフレッチェ広島や日本代表でともにプレーをする高木琢也擁する国見高校を下しての出場だった。

全国大会では2回戦で秋田商業にPK戦の末敗れるも、前川の存在は全国に知れ渡り、注目を集めた。

ちなみにこの年の全国高校サッカー選手権は後の日本代表となる黒崎久志(宇都宮学園)や北沢豪(修徳)、真田雅則(清水商)など数多くのJリーガーが生まれた。

当時のマツダSC(現サンフレッチェ広島)の総監督を務めていた今西和男は、平戸市にある前川の実家に行き、「息子さんは将来日本一のキーパーになる逸材です」と話し、プロ入りに反対する前川の両親を説得したという。

前川は高校卒業後、今西率いるマツダSCに入団する。

前川和也のプロ入り後

前川は1986年に当時JSL2部に在籍していたマツダSCへ入団。

入団後、3年間は出場機会に恵まれなかったが、GKコーチのディド・ハーフナーから指導を受け頭角をあらわし正GKに抜擢される。

1989年、1990年のJSL2部には2シーズンとも30試合に出場し、2年連続でベスト11に輝く活躍を見せる。

1992年にチームがJリーグのサンフレッチェ広島として発足した後も正GKとして活躍。

1994年にはサンフレッチェ広島が1stステージを制覇。

2ndステージ覇者のヴェルディ川崎とチャンピオンシップを戦うも、サンフレッチェは惜しくもヴェルディに敗れ準優勝に終わる。

前川はシーズン中は正GKとして堅守のサンフレッチェを支えるも、残念ながらチャンピオンシップは2戦とも怪我の為に出場できなかった。

サンフレッチェ広島には1999年まで在籍し128試合に出場した。

その後、J2の大分トリニータへ移籍。

大分では2シーズン、正GKとしてプレーし古傷の肩の影響もあり、33歳の若さで現役を引退した。

日本代表としての前川和也

前川は1992年に日本代表に初選出。

当時は松永成立という絶対的な守護神がいたため、前川は控えに回ることが多かったが、その体格とポテンシャルから、メディアからは将来の日本代表守護神として期待された。

1992年のアジアカップでは、準決勝の中国戦で退場した松永成立に代わり急遽出場。

何でもないシュートをトンネルしてしまい、前川のミスでゴールを献上するという失態を犯したが、決勝では安定した好プレーを見せ日本代表の初優勝に貢献した。

翌年の「ドーハの悲劇」も前川はベンチで経験した。

後年、ドーハの悲劇は自分にとって財産だったと前川は語っている。

あの街での2週間がなければ今の自分も今の日本サッカーもないのだと。

前川和也の引退後、現在

前川は2002年から大分トリニータの事業部に所属し、営業などをこなし現在は広島県でサッカースクールFCバイエルンツネイシの総括チーフ兼GKコーチを務める。

また、前川の息子である前川黛也(まえかわ だいや)は2017年からヴィッセル神戸に所属するGKとなった。

サッカーを見ていて、GKとは孤独でシビアなポジションだといつも思う。

肉体的な強さも、テクニックももちろんだが、精神的な強さも同じくらい求められる。

いつだって冷静でなくてはいけないし、どんなに劣勢に立たされようとも大きな声でチームメイトを鼓舞し、盛り上げていかなくてはいけない。

その過酷なGKというポジションを、現役を退いた後も少年たちに教え続ける前川の存在は未来の日本サッカーにおいて貴重な存在である。

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