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棚田伸の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第349回】

豊富なスタミナを持ち、技巧派MFとして活躍したMF棚田伸。

テクニックを生かした長短のパスとスピードに乗ると止められないドリブルで攻撃を牽引した。

1993年、1994年と2年連続でJFLベストイレブンに輝くなど創世記の柏レイソルの中心選手として知られる。

Jリーグ昇格後の1995年シーズンはキャリアハイとなる16得点を記録するなど決定力の高さも見せた。

棚田伸のプロ入り前


棚田伸は1969年に広島県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、中学卒業後に広島県立広島工業高等学校へ進学。

1年生からレギュラーとして活躍し、選手権には3年連続で出場。

2年次には1回戦で財前恵一、野田知擁する北海道代表の室蘭大谷高校と対戦。
0-0の引き分けからPK戦に突入し、棚田は2人目のキッカーとして蹴るも外してしまい、広島工業は1回戦で敗退している。

3年次には2回戦で富山一を4-2で下し、3回戦に進出するも神奈川代表の旭高に1-4で敗れている。

高校卒業後、棚田は順天堂大学へ進学。同級生に古賀琢磨森山泰行平岡宏章小村徳男らがいる。

大学1年次から2年連続で全日本大学サッカー選手権大会を制覇。大学3年次は決勝をかけて東海大学と対戦するも、澤登正朗にゴールを決められ0-1で敗れている。

大学卒業後、棚田は柏レイソルの前身である日立製作所サッカー部に入団する。

棚田伸のプロ入り後

日立に入部した棚田は加入初年度からレギュラーに定着。

初年度はリーグ戦16試合に出場しベストイレブンに選出。
翌年も2年連続でベストイレブンに選出されると同時にJFL新人王に輝いた。

3年目のシーズンは背番号10を背負い、リーグ戦17試合に出場。
小柄ながらもトリッキーなドリブルと正確無比なパスを武器に司令塔として活躍し、柏レイソルのJリーグ昇格に貢献した。

1995年、Jリーグが開幕。

サントリーシリーズ開幕戦の清水エスパルス戦ではベンチスタートだったが、後半から大熊裕司と交代で出場しJリーグデビューを勝利で飾った。

その後もコンスタントに出場を続け、第7節ガンバ大阪戦では初ゴールをマーク。この年の柏はミューレルカレカという強力な元ブラジル代表コンビの2トップが最大の武器だったが、棚田は2列目からの飛び出しと、2人を支える効果的なパス出しとスピード溢れるドリブルで攻撃を牽引。この年はリーグ戦44試合に出場し16得点を挙げ、チーム得点王の活躍を見せた。

棚田にとって飛躍のシーズンとなったが、この年の年末に左膝十字靭帯断裂の重傷を負い、翌年はほとんどの時間をリハビリに費やすことになった。

復活をかけた1997年は、開幕戦の清水エスパルス戦で加藤望と交代で出場。その後も交代出場が多いながらも、エジウソン、ジャメーリの後ろに位置し、積極的な仕掛けを見せた。

1998年は第5節鹿島アントラーズ戦でベンチ入りし片野坂知宏と交代して出場すると3-2の勝利に貢献。
次節の京都戦からスタメンを奪取し出場を続けるも、第8節マリノス戦での0-4の大敗を機に出番が減った。

10月には出場機会を求めてコンサドーレ札幌へ移籍。

第15節ヴィッセル神戸戦で移籍後初ゴールを決めると、第16節ジェフユナイテッド市原、第17節横浜フリューゲルスと3試合連続ゴールを決めた。

1999年も札幌でプレーしリーグ戦32試合に出場するも、1ゴールに終わりこの年限りで現役を引退した。

棚田伸の引退後と現在

棚田は引退後、指導者に転身。

松戸高等学校のコーチを務めたのち、東京都稲城市にサッカークラブ「プログレッソ東京」を立ち上げ、代表として活動している。

1995年シーズンの棚田の活躍は今でも記憶に残っている。

キレのあるドリブルで自分より大きなDFを次々に抜いていく姿は可能性を感じさせた。

この年の年末に負った左膝十字靭帯断裂がターニングポイントになってしまったが、その後も札幌で3試合連続ゴールを決めるなど印象に残るプレーを随所にみせてくれた。

2022年から棚田の甥にあたる棚田遼がサンフレッチェ広島でプレーをしている。棚田伸同様、キレのあるドリブルが魅力の選手であり、将来が楽しみな選手の一人である。

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