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石末龍治の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第347回】

守備範囲が広く、安定感のあるGK石末龍治。

伊丹北高校、東海大学では同年代屈指のGKとして名を馳せ、全日空サッカー部に入部。

Jリーグ開幕後はセカンドGKを任されることが多かったが、出場時は好セーブを連発し、幾度となる危機を救った。

JFLのヴィッセル神戸時代は、初代キャプテンを務め、1996年シーズンはフル出場し、ベストGK賞とベスト11を受賞。神戸のJリーグ入りに大きく貢献した。

引退後はS級ライセンスを取得し指導者として活躍する一方で、特定非営利活動法人「伊丹アスリートクラブ」を設立し、理事長を務めるなど精力的に活動を続ける。

石末龍治のプロ入り前


石末龍治は1964年に兵庫県伊丹市に生まれた。

伊丹市立瑞穂小学校でサッカーを始め、伊丹市立東中学校卒業後、伊丹北高校へ進学。

高校3年次に、島根県で開催された国民体育大会に兵庫県選抜として出場。和田昌裕永島昭浩とともに選出された。
決勝では堀池巧大榎克己らを擁する静岡選抜と対戦し同時優勝を達成した。

高校卒業後は、東海大学へ進学。
1学年下に、後に全日空、横浜フリューゲルスでともにプレーする前田治がいた。

東海大学在学中は神戸で開催されたユニバーシアード日本代表候補に選出されるなど活躍。

1987年、大学卒業後は全日空横浜サッカークラブに入団する。

石末龍治のプロ入り後

石末は入団2年目から出場機会を掴むと、3年目のシーズンはリーグ戦20試合に出場し全日空のリーグ戦年間3位、天皇杯では1988年と1989年に2年連続でベスト4進出に貢献した。

1992年Jリーグが発足。

1992年に開催されたヤマザキナビスコカップは、中河昌彦とのポジション争いの末、序盤は正GKとして起用されるも、4節が終わった時点で1勝3敗と結果が出ず、終盤は中河昌彦が起用された。

1993年、Jリーグが開幕すると、若手の森敦彦が起用され、石末は控えに回った。

1993年は出場機会がなかったが、翌年は森の出場停止の際に出番が回ってくると、持ち前の堅実な守備でチームを支えた。

1995年、横浜フリューゲルスを離れ、当時JFLのヴィッセル神戸へ移籍。初代キャプテンを務めた。

ヴィッセル神戸としての初練習の日、神戸は震災に襲われた。
震災の被害で練習場所を失った神戸の選手たちは、時には公園でボールを蹴る日々が続いた。

石末は加入年からレギュラーとしてチームを支え、年間順位6位躍進に貢献。

翌年は、フルタイム出場を達成し、ヴィッセル神戸のJリーグ昇格に貢献。自身もベストGKに選出された。
尚、ともに高校時代に国体選抜としてプレーした和田昌裕、永島昭浩も神戸に加入しており、3人ともこのシーズンのベスト11に選出されている。

1997年はJリーグに再び戻る形となった。石末は開幕から正GKとして出場を続けるも、チームは勝ちきれない試合が続いた。
特に2ndステージは1勝しかできず最下位となり、年間順位も16位と低迷した。

1998年も開幕から出場を続け、リーグ戦13試合に出場したが、途中で前田信弘が起用されるようになり、この年限りで引退となった。

石末龍治の引退後と現在

石末は引退後、指導者へ転身。JFA ナショナルトレセンコーチ、ヴィッセル神戸ユースコーチなどを担当。

2020年からはアルビレックス新潟のGKコーチを務めている。

また、石末は地元にスポーツを根付かせるべくNPO法人「伊丹アスリートクラブ」を発足し理事長を務めている。

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