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千代反田充の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第336回】

高校時代は「赤い彗星」東福岡高校の最後の砦として、高校サッカー史上初の3冠達成に大きく貢献した千代反田充。

筑波大学時代は、関東選手権大会や、関東リーグ戦などのタイトルを獲得し、大学屈指のセンターバックとして名を馳せた。

Jリーグでは、アビスパ福岡、アルビレックス新潟、名古屋グランパス、ジュビロ磐田、徳島ヴォルティスと、5つのチームを渡り歩き、攻撃力のあるディフェンスリーダーとして君臨。

特にアルビレックス新潟では、高さと統率力を武器に、チームを牽引する不動のセンターバックとして活躍した。

千代反田充のJリーグ入り前


千代反田充は、1980年に福岡県福岡市に生まれた。

6歳の時にサッカーを始め、福岡市立鶴田小学校では、鶴田少年サッカークラブに所属。

福岡市立老司中学校ではサッカー部に入り、九州大会で3位に入る原動力となった。

中学卒業後は、福岡県屈指の強豪校である東福岡高校へ進学。

同学年には、鹿島アントラーズに進んだ金古聖司、名古屋グランパスに進んだ宮原裕司、富永康博がいる。

高校2年時には、一つ上の本山雅志、手島和希、古賀誠史らと躍動し、インターハイ、全日本ユース選手権、高校選手権の制覇に貢献。千代反田は、高校サッカー史上初の3冠を経験。千代反田は、金子聖司と「世代最強のセンターバック」を形成し、大きな注目を集めた。

同学年の金古や宮原がJリーグのチームに入団する中、千代反田は筑波大学へ進学。千代反田はJチームからオファーを受けていたが、「当時の実力では生き残るのは難しい」と判断しての大学進学であった。

筑波大学では、関東選手権大会、関東大学サッカーリーグ優勝など、数々のタイトルを獲得。大学3年時には、全日本大学選抜に選出。大学4年時には、全日本大学サッカー選手権大会に出場し、全日本大学サッカー選手権大会ベストDF賞を受賞し、プロから注目を集めるセンターバックとなった。

大学卒業後、地元のJ2チームであるアビスパ福岡からオファーを受け、入団を決意する。

千代反田充のJリーグ入り後

千代反田は、2003年4月19日第7節の大宮アルディージャ戦でJリーグデビューを飾る。

入団1年目は、リーグ戦26試合に出場し、後半戦は5連勝を含む16勝3分3敗の成績でアビスパはリーグ戦4位でシーズンを終えた。

2004年は、4バックの一角として出場を続け、リーグ戦5得点と、高い得点能力も見せる。千代反田の安定した活躍もあり、アビスパは、第37節から最終節まで8連勝してJ1・J2入れ替え戦に臨むも、柏レイソルに敗れ、あと一歩のところでJ1昇格を逃した。

2005年は、キャリアハイとなるリーグ戦7得点をマーク。アビスパも2位でシーズンを終えJ1昇格となった。

2007年からはアルビレックス新潟へ移籍。

千代反田はディフェンスリーダーとして、永田充とのコンビで新潟の堅守を支える。2009年は、優勝した鹿島アントラーズの30失点に次ぐ、シーズン31失点という結果に抑える活躍を見せた。

2010年からは名古屋グランパスへ移籍。

田中マルクス闘莉王とのツインタワーに期待が寄せられるも、増川隆洋とのレギュラー争いに敗れ、なかなか出場機会を得られなかった。

2012年はジュビロへ移籍するも、満足のいく結果は残せず、2013年からはJ2の徳島ヴォルティスへ移籍。

徳島では、序盤は怪我で苦しむも、11月3日第39節アビスパ福岡戦で先発に復帰。残りの試合には全てフル出場を続け、J1昇格に貢献した。

2014年は、開幕戦から先発出場を続けるも、チームは5連敗で15失点を記録。千代反田は先発を外れるようになり、第20節のマリノス戦で久しぶりの先発復帰を果たすも、またしても勝利に恵まれず、この試合が現役最後の試合となった。

千代反田充の引退後と現在

千代反田充は、現役引退後の2015年、名古屋グランパスのスクールコーチに就任。ジュニアユース年代への指導を1年間経験する。

2015年12月、サッカー以外の職業への就職を考え、千代反田は転職活動を始める。3ヶ月程の就職活動を経験した後、アサヒビール株式会社へ就職する。35歳での挑戦だった。現在、千代反田は、アサヒビールの東京都北区エリアの営業担当として、忙しい毎日を送っている。

日本代表という肩書きがあれば、指導者としての道も開けてくるが、そこでも激しい競争が待っている。毎年100人以上が「元Jリーガー」となる現在の日本サッカー界において、サッカー関連の仕事で飯を食っていくというのは容易ではない。

そんな中で、千代反田が自らサッカーと関係のない世界に飛び出し、サラリーマンとして働いているということは、今後のJリーグ界にとっても、ひとつの道しるべとなるだろう。

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