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リトバルスキーの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第329回】

1993年、華々しく開幕したJリーグで、3人のワールドクラスの外国人選手の加入が大きな話題を集めた。

神様と言われた鹿島アントラーズのジーコ、ワールドカップ得点王で名古屋グランパスに加入したリネカー、そして世界的なドリブラーとして知られ、ジェフユナイテッド市原に加入したリトバルスキーである。

リトバルスキーはドイツでもトップクラスのドリブルと、正確なフリーキックを武器に、Jリーグの舞台でも活躍し、多くのサッカー少年の憧れの存在となった。

身長168センチと小柄ながら、いとも簡単に相手選手を抜き去り、正確無比なキックで相手の裏を取るスルーパスで幾度もチャンスを演出した。

リトバルスキーが魅せる芸術的なプレーに、サッカーに馴染みのなかった日本人は酔いしれ、唸り、そして尊敬の念を込めて彼をこう呼んだ。

フィールドの芸術家、アーティストと。

リトバルスキーのJリーグ入り前

リトバルスキーは、1960年に西ベルリンに生まれた。

7歳の時に、VfLシェーネベルクの下部組織に入団。リトバルスキーは、当時から足元のテクニックに優れており、大きな期待を集めていた。後にリトバルスキーの代名詞と言われるドリブルの技術は、この時代に培われたものである。

1978年、リトバルスキーが18歳の時に、デンデスリーガの1.FCケルンに入団。 ケルンには、日本代表の奥寺康彦がいた。

ケルンでは入団初年度からレギュラーとして起用され、20歳でキャプテンに就任するなど、順調にキャリアを積んでいった。

1981年、21歳の時に西ドイツ代表に選出。1982年4月14日に行われたチェコスロバキア戦でフリーキックでのアシストと、ミドルシュートでのゴールを記録し、代表でのレギュラーを獲得した。

以降10年間に渡り、西ドイツ代表の中心人物として君臨し、3度のワールドカップに出場。優勝を1回、準優勝を2回経験した。

1986年のワールドカップ・メキシコ大会で、西ドイツ代表は決勝に駒を進め、アルゼンチンと対戦。同い年でドリブルを得意とするマラドーナが脚光を浴び、アルゼンチンが優勝を飾るが、リトバルスキーは怪我の影響もあり、試合に出場することはなかった。

しかし、1987年。リトバルスキーに大きな転機が訪れる。当時、世界最高のリベロと称されたモアテン・オルセンがケルンに入団。リトバルスキーは、オルセンからドリブル以外のプレーや、リーダーシップなど多くの事を学び、これがきっかけとなりリトバルスキーのプレーの幅は更に広がっていった。

リトバルスキーは、オルセンとの出会いについて「彼からドリブル以外の技術を伸ばすことを教えられた。私がドリブルの多い個人プレーヤーからチームプレーヤーに変わったのは彼のお陰だ」と語っている。

1990年のワールドカップ・イタリア大会では、西ドイツ代表の中心選手として活躍。ドリブルだけでなく、オープンスペースに正確に配給するラストパスを武器に西ドイツ代表の攻撃を牽引し、16年ぶりとなる西ドイツ代表の優勝に大きく貢献した。

その後も、ケルンでは中心選手として活躍していたが、ケルンとの契約が切れる1993年、リトバルスキーはジェフユナイテッド市原からオファーを受け、移籍を決断する。

リトバルスキーのJリーグ入り後

世界的な名選手であるリトバルスキーの入団は、大きな注目を集めた。

Jリーグ開幕戦となる5月16日のサンフレッチェ広島戦では、背番号10を背負い、Jリーグデビューを飾る。

初戦は1-2で惜しくも敗れるが、5月19日の第2節ヴェルディ川崎戦では初ゴールを記録して勝利に貢献。続く第3節ガンバ大阪戦でも2試合連続となるゴールを決めた。

しかし、ジェフは波に乗ることが出来ず、1stステージを5位で折り返すと、2ndステージでは終盤では10連敗を記録するなど苦しみ、10チーム中9位に沈んだ。

ジェフには元チェコU21代表のパベルや、元ドイツ代表のオッツェがおり、リーグでも屈指の攻撃力を誇ったが、ディフェンス面が噛み合わず、失点数が多かった。特に2ndステージは、全試合で失点を記録し、開幕戦以外は全ての試合で2失点以上を記録するなど、深刻な状態であった。

1994年もジェフに残留し、中心選手として活躍。ルーキーの城彰二の加入や、オッツェが得点王を獲得したこともあり、チームとしての得点数は前年度より増えたが、失点数は改善されず、またしても下位に沈んだ。

その中でも、リトバルスキーは特異のドリブルだけでなく、長短の正確なパスや、プレースキックでチャンスを量産。

チームの成績が振るわなかったこともあり、ベストイレブンには選出されなかったが、リトバルスキー自身は、創造性溢れるプレーで孤軍奮闘の活躍を見せた。

1994年シーズンが終わり、リトバルスキーはジェフを退団し現役引退を表明。

しかし1996年にJFLのブランメル仙台(現:ベガルタ仙台)に入団。2年間プレーし、正式に現役を引退した。

リトバルスキーの引退後と現在

リトバルスキーは現役を引退後、指導者に転身。

日本でも1999年、2003年に横浜FC、2007年にはアビスパ福岡で監督に就任し、指揮を執っている。 現在は、ブンデスリーガのヴォルフスブルクでブランドアンバサダーを務めている。

リトバルスキーといえば、ドリブルが代名詞であるが、ドリブラーにありがちな、いわゆるエゴイストのようなプレイヤーではなかった。

広い視野と、的確な戦術眼を持ち、局面を打開する様々な選択肢の中からドリブルという最善の選択をしている選手であったように思う。

特に、相手に前を塞がれた中で、繰り出される彼のプレーは秀逸で、観客の想像を常に超えていた。

全く無駄な動きのないボールコントロールと、絶妙なボディバランス。

リトバルスキーがドリブルを選択しても、パスを選択しても、丸いボールは面白いように、相手ゴールに迫っていった。

リトバルスキーは、現役当時を振り返り、インタビューでこう語っている。

「サッカーは偉大な娯楽だ。見に来た人たちが日々のストレスや悩みを忘れ、家に帰ってからも幸せな思いに浸れるような素晴らしい娯楽である。そして私自身もサッカーを楽しみたいと思っている」

サッカーの可能性をピッチの中で表現し続けた芸術家・リトバルスキー。彼の魅せるプレーの根源は、「サッカーを楽しむ」という、純粋で揺るぎない信念から生まれたものだったのかもしれない。

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