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ジョルジーニョ(鹿島)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第320回】

鹿島アントラーズの背番号2といえばこの選手だろう。ジョルジ・デ・アモリン・カンポス。通称ジョルジーニョ。

抜群の安定感と卓越した右足の精度で、数々の栄冠を獲得する。カフー、マイコン、ダニエウ・アウベスなど名選手が揃うブラジル歴代右サイドバックの中でも、屈指の評価を得るジョルジーニョ。 

現役ブラジル代表という肩書をもって来日し、同じく現役ブラジル代表のレオナルドとの最強コンビで鹿島アントラーズ黄金期を支えた。ジョルジーニョの活躍なくして、1996年の鹿島アントラーズの優勝は語れないだろう。

ジョルジーニョは主にボランチとして、攻守に渡りチームを支え、時には強烈なミドルシュートや、難しい角度からのフリーキックを何度となく突き刺して見せた。

ジョルジーニョは1996年、JリーグMVPを獲得。異彩を放ったその存在感は、唯一無二のものだった。

ジョルジーニョ(鹿島)のJリーグ入り前

ジョルジーニョは1964年にブラジル・リオデジャネイロに生まれた。

貧しい家庭で育つも、14歳でリオデジャネイロのアメリカFCに入団し、サッカーを学んだ。元々はセンターバックとしてプレーしていたが、当時は身長が低かったことからサイドバックに転向している。

1983年シーズンに、17歳でアメリカFCのトップチームに昇格し、デビューを果たすと、この年のワールドユースブラジル代表に選ばれ、準優勝を経験した。

1984年シーズンには、フラメンゴへ移籍。1986年シーズンに、リオ・デ・ジャネイロ州選手権で優勝すると、 翌1987年シーズンには、ベベット、ジーコ、ジーニョ、レオナルドらと共にブラジル全国選手権で優勝を果たした。

ジョルジーニョは、1987年にブラジル代表に選出。1989-1990年シーズンには、ドイツのバイヤー・レヴァークーゼンに移籍した。ジョルジーニョは主にボランチを務め、その優れた戦術眼と、展開力でチームの柱となった。

1990年にはブラジル代表として背番号2を背負い、イタリアワールドカップに出場。この大会のブラジル代表には、後にJリーグでプレーするドゥンガ(ジュビロ磐田)、ビスマルク(川崎、鹿島、神戸)、カレカ(柏)、モーゼル(鹿島)、ミューレル(柏)、ベベット(鹿島)などが選出されている。

ジョルジーニョは、ブラジル代表では右サイドバックとして活躍。優勝も期待されたが、決勝トーナメント1回戦でマラドーナ擁するアルゼンチンの前に敗れている。

1992-1993年シーズンには、名門バイエルン・ミュンヘンに移籍。

バイエルン・ミュンヘンでも主にボランチとしてプレーし、 1993-1994年シーズンには、バイエルンの4シーズン振りの優勝に大きく貢献した。

1994年アメリカワールドカップにも出場。右サイドバックをジョルジーニョが、左サイドバックをレオナルドが務めた。決勝戦ではイタリアと対戦したが、ジョルジーニョは前半20分に負傷交代。ジョルジーニョを失ったブラジルは、苦戦を強いられるも、PK戦の末になんとか優勝を果たしている。

ワールドカップ後、1994-1995年シーズンもバイエルンでプレーするも、このシーズンは僅か10試合の出場にとどまり、このシーズンを最後にドイツを後にする。

ジョルジーニョは、フラメンゴ時代のチームメイトであるジーコからの誘いを受け、鹿島アントラーズに移籍する。

ジョルジーニョ(鹿島)のJリーグ入り後

ジョルジーニョは、鹿島に入団すると、背番号は「2」を与えられたが、ドイツ時代と同じくボランチを務める事になった。当時の鹿島にはブラジル代表のチームメイトであるレオナルドが在籍しており、94年アメリカワールドカップの両サイドバックが鹿島に揃う事となった。

ジョルジーニョは1995年3月18日の第1節横浜マリノス戦でJリーグデビューを飾ると、 そのポテンシャルを存分に発揮。 ボランチとして、攻守に渡り圧倒的な存在感を見せた。この年はリーグ戦29試合に出場し8得点を記録。フリーキックやPKなどのプレースキッカーも務めた。

特に1996年のジョルジーニョの活躍は顕著であり、レオナルド、マジーニョとの連携で何度もチャンスを演出した。この年、ジョルジーニョの活躍で鹿島アントラーズはリーグ優勝を飾り、ジョルジーニョ自身もベストイレブンとJリーグMVPを獲得した。

1997年は、司令塔のビスマルクと、決定力のあるマジーニョが攻撃的MFを務め、ジョルジーニョは後方からチームを支えた。ナビスコカップでは決勝のジュビロ磐田戦でゴールを決め、大会MVPを獲得した。1998年元旦に行われた第77回天皇杯では、横浜フリューゲルスを破り優勝。試合後には、ビスマルク、マジーニョと3人で肩を組んでピッチに祈りを捧げる姿がテレビ中継で放送された。

1998年シーズンも、攻守に渡りチームを支え、2ndステージ優勝に貢献。チャンピオンシップではライバルであったジュビロ磐田を下し、年間優勝に貢献するもこの年を持って惜しまれながら鹿島を去ることになった。

1999年シーズンには、サンパウロFCにて、11年ぶりにブラジルのクラブでプレー。

2000年シーズンには、ヴァスコ・ダ・ガマでプレー。 ロマーリオと共にチームを牽引し、全国選手権と国内カップの2冠に大きく貢献した。

2002年シーズンにはフルミネンセに移籍。 2003年シーズンのプレーを最後に20年に渡る現役生活に別れを告げた。

ジョルジーニョ(鹿島)の引退後と現在

ジョルジーニョは引退後、代理人を経て指導者に転身。

ブラジル代表のコーチや母国のゴイアス、フィゲイレンセの指揮官を務めた後、2012年には古巣・鹿島アントラーズの監督に就任した。 鹿島監督時代には、ナビスコカップを制覇したが1年限りで退任している。

その後は、フラメンゴやヴァスコ・ダ・ガマの監督を経て、現在はブラジルでサッカースクールを経営している。

2020年4月には、ジョルジーニョの妻、子供、そして義理の父親が新型コロナウイルスに感染していることを告白。ブラジルでは日々感染が拡大しており、4月22日時点で感染者は4万5000人、死者は2000人を超えている。

ジョルジーニョはビデオメッセージでブラジルの苦しい状況を語ったうえで、こうメッセージを発信している。

「親愛なる鹿島サポーター、そして日本の皆さん。神のご加護でブラジル、日本、そして世界を護ってくれることを願っています。リスクの高い60歳以上の方、持病をお持ちの方などを重点的にケアしてこのパンデミックに勝利しましょう。皆さんが恋しいです。心からのキスを。」

自身が大変な時に、日本へ向けたメッセージを発信してくれた世界最高の右サイドバックに感謝するとともに、ジョルジーニョのご家族が無事であることを祈るばかりだ。

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