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スキラッチの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第317回】

1990年アメリカワールドワールドカップで得点王と大会MVPを獲得した実績を持ち、1994年にジュビロ磐田に加入したサルヴァトーレ・スキラッチ。

ジュビロ磐田では、中山雅史と不動の2トップを形成。怪我がちだったため、出場時間は限られたが、出場した試合では体幹の強さと一瞬のスピードを武器に、Jリーグにおいても、さすがの存在感を発揮した。

1995年にはリーグ戦34試合に出場し31得点を記録。この年の得点王を獲得した浦和レッズの福田正博と最後までタイトル争いを演じた。

突如、イタリア代表に抜擢され、ワールドカップで大活躍したことから、ラッキーボーイの印象が強いスキラッチだが、不遇な少年期を過ごし、僅か13歳から働き始め、地元イタリアのアマチュアクラブでキャリアをスタートした過去を持つ。

スキラッチは、プロ入り後も、4部リーグ、3部リーグ、2部リーグ、1部リーグとキャリアをステップアップしていき、ワールドカップで得点王を獲得したという努力の人でもある。

スキラッチのJリーグ入り前


スキラッチは、1964年にイタリアのシチリア島に生まれた。

大工の父親を持つ家庭で生まれ育ったスキラッチであるが、家の経済状況は非常に悪く、スキラッチは13歳から働き始めることとなる。 近所の富豪の家でタイヤ交換をし、収入を得ると、その収入で幼い弟と妹を含めた家族を養うこととなった。

小学校を卒業するのも難しいと思われたスキラッチだが、学校に通いながら、タイヤの交換の仕事をし、さらに地元のサッカーチームでサッカーを学ぶという少年時代を送った。

少年期から才能を発揮したスキラッチは、次第に地元で有名となり、18歳で高校を中退して、家族を養うために地元のアマチュアクラブ、AMATパレルモでプレーする事を選択。

翌シーズンには当時4部リーグに所属していたACRメッシーナに移籍し、プロ契約を結んだ。

入団4年目の1985-1986シーズンには11ゴールを挙げ、チームのセリエB(2部)昇格の原動力となる。

1987ー1988シーズンには、セリエBで13ゴールを挙げ、1988-1989シーズンはリーグ戦23ゴールを挙げ、セリエBの得点王に輝くと、スキラッチは多くのチームからオファーを受けることになった。

そのオファーの中には、名門ユベントスからのオファーがあり、スキラッチは迷わずユベントスへの移籍を決意した。

セリエAでの実績のない無名の選手が、ユベントスというビッグクラブでいきなりエースとしてプレーすることは非常に珍しく、サポーターはスキラッチに懐疑の目を向ける。しかし、スキラッチは1年目ながらチーム最多のリーグ戦15得点を挙げ、ユベントスのエースとして結果を残した。国内カップでの優勝、さらに、UEFAカップでも優勝し、2冠達成の立役者となった。

この活躍でスキラッチの名前は、ヨーロッパに知られるようになる。

このシーズン途中の3月には代表デビューも果たし、1990年のイタリアW杯の最後の22人目のメンバーに選出された。

グループリーグ初戦オーストリア戦で、途中出場すると、ファーストタッチでゴールを決め、チームを勝利に導いた。決勝トーナメントに進出しても、パフォーマンスは落ちることなく、ロベルト・バッジオとのコンビで結果を出していく。

1回戦のウルグアイ戦、準々決勝のアイルランド戦でも決勝ゴールを奪い、スキラッチはこの大会の主人公の一人となった。

準決勝では、マラドーナ率いるアルゼンチンと対戦したが、スキラッチは前半17分に先制ゴールを決める。試合は決着が着かないままPK戦に突入。PK戦ではドナドーニとセレーナが外し、イタリアはアルゼンチンの前に涙を飲んだ。スキラッチは5人目までのPKキッカーには選ばれなかった。

3位決定戦に進んだイタリアは、イングランドと対戦。この試合でも、バッジオが得たPKをスキラッチが決め、数年前までは3部リーグで無名だった男は、通算6ゴールでワールドカップ得点王に輝き、大会MVPにも選ばれ、全世界から注目を集めることとなった。

1990-1991シーズンには、バッジオがユベントスに加入。再びタッグを組むこととなった。

しかし、相手チームの激しいマークや度重なる故障もあり、満足のいく結果は残せなかった。バッジオとコンビを組んだ2シーズンで、挙げたゴール数はわずか11に留まった。

1992-1993シーズンは、同リーグにインテル・ミラノに移籍した。 1993ー1994シーズン、スキラッチは開幕から3試合連続ゴールを挙げるも、その後故障により、ベルカンプにポジションを奪われる。

1994年、スキラッチは日本に活躍の場を移す。

スキラッチのJリーグ入り後

スキラッチは、1994年4月30日第13節ヴェルディ川崎戦で、鈴木将方の2トップでJリーグ初出場をスタメンで飾ると、後半42分にさっそくJリーグ初ゴールをマークした。

この年、中山雅史は、恥骨結合炎及び股関節障害の影響で8ヶ月程ピッチを離れることになり、スキラッチの相方は鈴木の他、大石隆夫や松原良香などが務めた。

スキラッチはJリーグ1年目は18試合に出場し9得点を決めるが、ワールドカップ得点王の肩書に対して少し寂しい結果となった。

1995年、中山が戦線に復帰すると不動の2トップを形成。リベロのファネンブルグ、中盤の名波浩、藤田俊哉、服部年宏らを擁する攻撃的な布陣の援護もあり、得点を量産した。

第2節ガンバ大阪戦から第6節のマリノス戦まで5試合連続得点を記録。その後も第19節ベルマーレ平塚戦から第23節鹿島アントラーズ戦までの5試合でハットトリックを含む9得点を決めるなど、ストライカーとしての資質を見せつけた。

スキラッチが得意とする、ゴール前の動き出しで抜け出してワンタッチで決めきるゴールだけでなく、力強いドリブルで相手を抜き去り、強烈な右足を振りぬいて決めるゴールも見られた。得点を挙げることに非常に貪欲であり、名波は後年、スキラッチについて「彼は得点に対してストイックだから、自分が点を取った試合でも5点入れられて負けたとしても、彼はOK。5-0で勝っても、自分が1点も取らなかったらそれは彼の中ではモヤモヤが残る」と評している。

この年、スキラッチはリーグ戦34試合に出場し31得点を記録。得点ランキングでは1位の福田正博の32ゴールに次ぐ2位となった。

スキラッチは、1996年もジュビロでのプレーを選択。1996年5月15日のベルマーレ平塚戦でもハットトリックを達成するも、持病の腰痛が悪化し出場機会は大幅に減ることとなった。

1997年もジュビロでプレーするも、4月19日第3節のセレッソ大阪戦以降は腰痛の悪化もあり以降の試合に出場することはなかった。

スキラッチはこの年をもってイタリアへ帰国。現役を引退することになった。

スキラッチの引退後と現在

スキラッチは引退後、地元のパレルモでサッカースクールを開設。(スクールには350人以上の生徒が通っているが、2020年に全世界を襲った新型コロナウイルスの影響で、閉鎖に追い込まれたことを明かしている)

そしてスキラッチは、2017年にイタリアで生活する難民で構成されたチーム「アサンテ・カルチョ」の指揮官に就任している。

イタリアには、アフリカからの難民が多くいるが、難民の選手にプロとして活躍できるチャンスを与えるためのプログラムに一役買っているのだ。

スキラッチは当時のインタビューで語っている。「ボールが私のすべての人生を変えた。他の人も同じことができることを願っている」と。

夢中になってボールを追いかける無名の若手選手に、いつしかの自分の姿を重ねているのかもしれない。

貧しい家庭で育ちながらも、新星のごとく現れ、ワールドカップ得点王というビッグドリームを掴んだ自分の姿を。

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