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朴智星(パクチソン)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【306回】

盧廷潤(ノジョンユン)が入り口を開け、洪明甫(ホンミョンボ)や黄善洪(ファンソンホン)がレールを作ったとするならば、朴智星(パクチソン)こそがその道を歩み世界へと羽ばたいていった韓国人サッカー選手の第一号といっても過言ではない。

2000年、京都パープルサンガでキャリアをスタートさせた朴智星は中盤の控えの選手でありながらも、2年目から潜在能力を開花させ中盤のダイナモとして必要不可欠な存在となった。

3年間日本でプレーした後、オランダへ渡り、その後はマンチェスターユナイテッドで活躍。ファーガソン監督から絶大な信頼を受けプレミアリークで4度の優勝、UEFAチャンピオンズリーグで1度の優勝を経験した。

韓国代表としても3大会連続でワールドカップに出場し3大会連続ゴールを挙げるなどその存在価値は非常に高かった。

決して目立つプレースタイルではないが、中盤のあらゆる場所に顔を出し効果的な仕事をする彼はチームに幾多の勝利と栄光をもたらせた。

朴智星(パクチソン)のJリーグ入り前


朴智星は1981年に韓国の全羅南道高興郡に生まれた。

小学校4年生でサッカーを始め、水原サンナム小学校とセリュ小学校、華城(ファソン)アンヨン中学校に進学。

水原工業高校進学後、全国大会で優勝。しかし朴智星は高校時代は全国的に無名な選手であり、Kリーグのドラフトにかかることはなかった。この頃、地元のプロチーム水原2軍の入団テストを受けたが落選している。

その後、サッカーの強豪である明知大に進学した。 明知大に進学後、監督に見い出されU23(23歳以下)韓国代表に選出される。翌年には2000年4月5日にはAFCアジアカップ予選のラオス戦でA代表デビューも果たした。

大学在学中の2000年6月、明知大学監督の金煕泰と京都パープルサンガの木村文治総監督の協力により、京都パープルサンガへの入団が決定。 19歳での海外チーム入りは当時の最年少記録である。

朴智星は大学を休学しプロ入りを決意。両親の後押しもあり、Kリーグを経由せずに異例のJリーグ入りを果たした。

朴智星(パクチソン)のJリーグ入り後

朴智星は2000年6月24日2ndステージ第1節ジェフユナイテッド千葉戦でJリーグ初出場を果たす。

その後も松井大輔、遠藤保仁、望月重良らと中盤を形成し主にサイドハーフとして出場を続ける。

2000年11月11日第12節鹿島アントラーズ戦では待望のJリーグ初ゴールを記録。しかし京都はリーグ戦序盤より不振に陥り6月には加茂周監督を解任。ゲルト・エンゲルスが後任の監督に就任したが、年間成績は15位に終わり、J2へ降格した。

2001年はJ2リーグでのプレーとなったが、主にボランチで出場しリーグ戦38試合に出場、3得点を挙げ京都の1年でのJ1昇格に貢献した。 2002年も豊富な運動量を武器に献身的に中盤でプレー。この年はリーグ戦25試合に出場し7ゴールをマーク。また、この年の天皇杯の決勝でも同点ゴールを決め逆転優勝に貢献した。

朴智星はこの年、韓国代表として2002年日韓ワールドカップに出場。安貞桓(アンジョンファン)や黄善洪(ファンソンホン)、洪明甫(ホンミョンボ)、柳想鐵(ユサンチョル)など錚々たる韓国を代表するスター選手の中でも抜群の存在感を発揮。ベスト16進出をかけたポルトガル戦で決勝点となるボレーシュートを決めるなど、4強入りの立役者になった。

この活躍を受け、朴智星はオランダ・エールディヴィジのPSVアイントホーフェンに移籍する。契約期間は3年6カ月間、契約金100万ドル、年俸100万ドルの計450万ドル(約5億4000万円)と報道されている。

PSVでは3年間の在籍で2度のリーグ優勝を経験。その活躍はリーグ戦のみに収まらず、UEFAチャンピオンズリーグの舞台でも朴智星は躍動する。2004-2005の準決勝ではセリエA・ACミランと対決し、PSVの中盤のダイナモとして攻撃を牽引。惜しくもアウェーゴール数の差により決勝進出はならなかったが朴智星はミラン相手にゴールを奪うなど活躍し注目を集めた。

2005-2006シーズンからはイングランド・プレミアリーグのマンチェスターユナイテッドへ移籍。 今までプレミアリーグに在籍したアジア人選手の多くが活躍することなく去っていった事から当初は懐疑的な目を向けられるも、開幕戦で初出場を果たした朴智星は攻守に質の高いフリーランニングと効果的にスペースを埋める活躍で一気に評価を高めた。

この年はレギュラーとしてリーグ戦38試合中33試合に出場し、2得点7アシストを記録。 2006年には自身2度目となるワールドカップへ出場。グループリーグのフランス戦ではゴールを挙げるも2大会連続の決勝トーナメント進出は果たせなかった。

その後は膝の怪我もありクラブでの出場は減るが、2007-2008シーズンにはアジア人として初めてチャンピオンズリーグのタイトルを獲得。世界的スター選手の仲間入りを果たした。 マンチェスターには7シーズン在籍し、4度のプレミアリーグ制覇、チャンピオンズリーグ、クラブワールドカップ制覇を経験。試合終盤になっても尽きることのないスタミナはマンチェスターの大きな武器となった。

2012-2013シーズンはプレミアリーグのクイーンズ・パーク・レンジャーズ(QPR)FCでプレー。

豊富な経験を評価されキャプテンに就任するがQPRは不調に陥り、2部リーグに降格。朴智星は1シーズンでチームを去ることになった。

2013-2014シーズンは古巣であるPSVへ復帰。

リーグ戦34試合中23試合に出場し2得点の成績を残した。PSVのUEFAヨーロッパリーグ進出とリーグ戦最終順位4位に貢献するも膝の怪我を理由にこのシーズン限りで現役引退を表明している。

朴智星(パクチソン)の引退後と現在

朴智星は引退後、大韓サッカー協会のユース戦略本部長、国際サッカー評議会の諮問委員、マンチェスター・ユナイテッドのアンバサダーなどを務めた。

現在は2人の子供を儲け、家族と共にイングランドに居住。2017年にはFIFAマスターを履修。将来は韓国サッカーやアジアのサッカー発展に貢献したいと語っている。

朴智星は京都パープルサンガで頭角を現し、一気にスターダムに駆け上がっていった。日本には3年の在籍であったが京都在籍中は大阪経済法科大学に在学して日本語を流暢に話せるようになった。

日本語をマスターし、インタビューもすべて日本語で答えていたという外国人選手は非常に珍しい。ピッチ外でも、少しでも早くその国に溶けこもうとする朴智星の姿勢が世界への扉を開いていったのではないだろうか。

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