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薩川了洋の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第30回】

相手チームに強力なFWがいれば、マークにつくのはいつも薩川了洋だった。

徹底したマンマークでぴったり張り付き、時にはそのガツガツしたプレースタイルで相手をイラつかせ、仕事をさせない。

薩川了洋はどんなに雨が降っていても、雪が降っていてもピッチの上ではいつも半袖だった。

その明るい性格とガッツ溢れるプレーで多くのサポーターに愛された薩川は在籍した横浜フリューゲルスや柏レイソルにおいて、なくてはならない戦えるDFだった。

今回は炎のDF薩川了洋に迫る。

薩川了洋のプロ入り前


薩川は1972年に静岡県に生まれた。

静岡市立清水興津小学校でサッカーを始め、当初はFWの選手だったが小学校5年の時にDFになる。

サッカーの名門清水市立商業高校に進む。

高校3年時の1991年には全国高校選手権に出場。

清水商業には、薩川の他に、後にヴェルディ川崎に入団するGK大石尚哉、名古屋グランパスに入団するDF大岩剛(現鹿島アントラーズ監督)、後の日本代表の名波浩(現ジュビロ磐田監督)、山田隆裕望月重良など豪華な顔ぶれが揃っていた。

薩川は清水商業でレベルの高いサッカーに揉まれ、DFとしての礎を築いていく。

薩川は高校卒業後、日本サッカーリーグ1部の全日空(後の横浜フリューゲルス)に入団する。

薩川了洋のプロ入り後

全日空サッカークラブがJリーグ開幕後に横浜フリューゲルスになった後も、薩川はセンターバック、もしくは右サイドバックとして活躍。

Jリーグ初年度はリーグ戦20試合に出場。

2年目には35試合に出場し、横浜フリューゲルスの守備陣を支えた。

フリューゲルスには、チームが消滅する1998年まで在籍し、最後まで一線で活躍。

しかし、フリューゲルスが悲願の優勝を遂げる天皇杯では、準決勝の鹿島アントラーズ戦で退場になってしまう。

フリューゲルスラストゲームとなった天皇杯決勝の清水エスパルス戦は出場停止の為、薩川は出場できなかった。

しかし薩川は試合にもベンチにも入れないにも関わらず、背番号3のユニフォームを着てピッチの横でその瞬間を見ていたという。

天皇杯優勝後、チームの消滅が決まっていた為、国立競技場をなかなか出る気になれなかったと薩川は後日語っている。

薩川はフリューゲルス消滅後に柏レイソルに移籍する。

柏レイソルにはアジアのリベロといわれた洪明甫や後の日本代表となる渡辺毅がいた為、出場機会が限られる可能性があったが、加入初年度からレギュラーとして活躍する。

2003年10月の浦和レッズ戦でFWエメルソンと交錯した際に右足下腿部を骨折する大怪我を負い、全治8ヶ月の診断を受けるも翌年2004年には復帰を果たす。

薩川は2005年に柏レイソルとの契約が切れ、J2のチームからオファーがあったものの、33歳でユニフォームを脱いだ。

薩川了洋の引退後と現在

薩川は引退後、柏レイソルのフロントスタッフに転身。

AC長野パルセイロのコーチやJFLのFC琉球の監督を経て、2016年にはSC相模原の監督を務め、2017年からはJFLの奈良クラブの監督を務めた

2022年5月にはSC相模原のトップチーム監督に就任している。

薩川は現役生活15年の中でリーグ戦311試合に出場したが、日本代表には縁がなかった。

もし薩川了洋のようなハードマーカーが日本にいたら、きっとフランスワールドカップのアルゼンチン戦ではバティストゥータの、クロアチア戦ではシューケルのマークを任せられていたに違いない。

指導者となった薩川の熱い魂は、ピッチの上の選手達に語り継がれていく。

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